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映画「ぼくはうみがみたくなりました」

 投稿者:らんこ  投稿日:2009年11月28日(土)15時54分39秒
  自閉症の青年(伊藤祐貴)と看護学生(大塚ちひろ)のふれあいの旅を描いた映画「ぼくはうみがみたくなりました」の自主上映会が全国各地で多数行われ、多くの観客から「とても良かった」という感想が上がっています。

また、新潟・横浜などの映画館でのロードショーも決定しました。

とても明るく爽やかで、あたたかい映画です。いわゆる「お涙ちょうだい」映画ではありません。

この映画の詳しい情報や上映スケジュールなどは、
以下URLの映画「ぼくはうみがみたくなりました」製作実行委員会のホームページ(公式のサイト)をご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/bokuumi

また、この映画のことがよくわかる、日本映画専門サイト「Hoga Holic」の
伊藤祐貴(主演)と福田是久監督の連載対談(全5回)もぜひご覧ください。
http://www.holic-mag.com/HH.php?itemid=1585
 

おくりびと その1

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年11月15日(日)02時28分16秒
  今作を

「フラガール」  や  「スウィングガール」 、
そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 。
同じ モックン 作品では  「シコふんじゃった。」  のように
 「納棺師」 という未知なる種目にチャレンジしていく

     「パフォーマンス系映画」 の一種

                       のようなものだと早合点していました。


実際は、 「納棺師」 となったことによって父親という大きなトラウマを克服していく、

      「魂を救済する」 物語

                         であったのです。



でも、導入部は「パフォーマンス系映画」 の香りを強く漂わせていたのでした。
最初は軽いユーモアを挟み込みながら、しかし、モックン が初めて納棺を取り仕切る際には、

     儀式の厳かさがあり、

                  連綿と続いている伝統技能を
                  鑑賞している感覚となりました。

要所ではキリッとした表情を見せつつも、ユーモアを交えながら 「死」 というシビアなものを処理していくのかな? と気を許した瞬間に

      手厳しいシッペ返し

                  が用意されていたのです。


そのシッペ返しとは、 “老婆の腐乱遺体を納棺する” という、「キレイゴト」 では済まされないグロテスクな側面だったのです。
そして、この強烈な出来事の直後に挿入されたエピソードが、ボクの映画的好奇心を大いに刺激していったのです。

    “腐乱死体処理をしたその日の夕食は鍋料理で、今朝締めたばかりの
     「おかしら付き 鶏肉」 が食卓に並びました。

     その皺くちゃの顔とむき出しの肉 を見たモックンは
     老婆の遺体を思い出し 胸を悪くしてもどしてしまうのです。

     驚いて介抱をする 妻役の広末涼子女史ですが、その流れの中で、
     突然にモックン は奥さんに性的交渉にかかっていきました。”

というシークエンスとなっているのですが、今作に対する受賞のニュースが契機となって、家族連れ立っての鑑賞となった方々には、先の腐乱遺体のくだりと同様に、このシークエンスは居心地の悪い時間帯であったろうなと思いながらも、以下のようにボクはこの展開を大いに楽しんでいったのです。

  傷(いた)んだ遺体
       を処理させられたことによって、肉体と精神に大きなダメージを被り、

  新鮮な、でも死んだ肉体
       が食卓に上り、傷(いた)んだ遺体を思い出したことによって、
       「死」 の虚無感に襲われ、

  新鮮で、生きた肉体
       である、妻の広末涼子女史に、存在の 「確かさ」 を求め、
       肉体的な衝動の中に埋没していく

                 そんな モックン の赤裸々な心を感じたのです。


   傷(いた)んだ遺体     と
   新鮮な、でも死んだ肉体

           という 2つの肉体によって 精神的な不均衡に陥り、

   新鮮で、生きた肉体

           という確かな存在に、すがりついてしまう。

その究極的な境地として、本能的で官能的な側面に身を沈めていったモックン に、ボクは同調していったのです。

そして、ふと気付くと

       人間って切ないな.........。

                      と溜息をもらしていたのです。

死んでしまえば、どんな人であろうとその肉体は朽ちていくし、
生きていくためには、他の命を奪ってその肉体を食らわなければならないし、
「生」 が揺らいでしまったら、目の前にある確固たる 「生」 に救いを求め、
究極的には、「性」 というものにすがりついていくわけですから.....。

     「思惟」 と 「本能」 のせめぎ合いの中で
     生きていく 「人間」 っていうものは、

               本当に、切ないな.........。

                          と、 つくづく感じてしまった
                          瞬間だったのです。


こんな溜息をもらした直後に配置された おくりびと の社長たる 山崎務氏 の堅実な仕事ぶりには、ボクのような、かつての映画少年も、そして、今作の受賞歴がキッカで家族鑑賞をした鑑賞者の方々にも、心を打つ納得のシークエンスとなっていったのです。

そのシークエンスは
病気や事故による 「死」 の結果としての

     「遺体」 という 非日常的な物体     に対して、

おくりびとが、かつての故人の 「印象」 を加えていくことによって、
その取り扱いかねていた物体が、いつしか遺族の心の中で、
社会的役割を担っていた頃の

       一人の存在へと戻り、
       一つの人格を回復していく様が

                         感動的であったのです。

その場にいる女子中学生の母親であったことを、そして、とげとげしかった男の妻であったことを、まざまざと思い知らせてきたのです。

この行為は 故人の死に至るまでの苦痛の跡を消し去り、遺族の心の中に生き続けている姿へと戻していく儀式であったのです。それは遺族の気持ちにわだかまっている 「遺体」 という距離感があるものから、その垣根を取っ払って、

 生きていた証を持つ

       「母親」 にし、 「妻」 にもしていく


                そんな、崇高なる行いに他ならかったのです...。



中盤。


「銭湯のおばさんが亡くなった。」

このモックンの言葉だけで、この後の展開を予測することができて、
ボクの胸は熱くなっていきました。
そして、これからエンディングに向けて、一気に終結していくことを確信したのです


序盤は、老婆の遺体処理によるダメージで、モックンが 「納棺師」 を諦めてしまうところを、山崎務社長の崇高なる技に触れたことによって、その危機を回避していきました。
これは モックン の

       「内的世界」 における

            「納棺師」 という仕事の放棄と、その後の復活

                             を描いてきたわけですが、

中盤は 「銭湯のおばさん」 の息子で、モックン とは幼馴染となる 杉本哲太氏からの、職業差別を受け、そして、妻の広末涼子女史からも 「納棺師」 という職業を否定された挙句、実家に帰えられてしまうなどの

       「外部圧力」 を受けていく様と、

             その一方で仕事を覚え、その社会的貢献度の高さ故に
             意欲的に仕事に向き合っていく、言わば

       「内部拡充」 していく姿が

                     オーバーラップされていったのです。

「銭湯のおばさん」 の死 がもたらされたのは、まさに、こんな 「納棺師」 という職業に対する、ジレンマを打ち出したタイミングであったわけですから、大方の鑑賞者は以下のような展開を予測することができるのです。


 これから行われる 「銭湯のおばさん」 の葬儀は、息子の杉本哲太氏が喪主となって
 取りはかられ、 「銭湯のおばさん」 と顔見知りになっていた 妻の広末涼子女史も列
 席し、「納棺師」 について否定的であった二人が、我らがモックンによる、

     熟練した伝統芸能師のごとき
                      技の一部始終を
                                   目撃。

 そして、その真摯な態度と崇高なる成果を目の当たりにした二人が、モックンの仕事の
 貴さを認めて、それまでの自分の態度を悔い改めていくことになるはずだ、
                                                と。

このストーリーは、ストイックに 「納棺師」 という仕事に向き合っている モックン と、一方的に理不尽とも言える職業差別を受けている モックン の両方を見せつけられてきた者としては、ベタではありますが、心情的には納得のいく展開となっており、ボクは単純にその流れに乗っかっていったのです。


このように終盤への展開を予測し、その成り行きを楽しみにすることができた今作の中盤ではありましたが、2〜3の不手際が見受けられたのも事実ではありました。

モックン が社長の山崎務氏の部屋で食事を頂く際に、社長がふぐの白子を指して
  「これもご遺体だ」  と言ってうまそうに食べるシークエンスがあるのですが、よりによって

  「生き物は生き物を食って生きてる (中略) 死ぬ気になれなきゃ食うしかない。」

                   というセリフが、発っせられてしまったのです。

これは、序盤において

    傷(いた)んだ遺体
         ↓
    新鮮な、でも死んだ肉体
         ↓
    新鮮で、生きた肉体

で大きな映画的興奮を創出してきた一連の中の
「生きていくために他の命を奪い、その肉体を食らわなければならない宿命」 を
再び訴求してきたことを示します。

しかしながら、この白子による単発の表現は、
序盤の一連にあったイマジネーション豊かな世界観には、残念ながら遠く及ぶことはなく、
 「思惟」 と 「本能」 の狭間で生きていく人間の切なさ など微塵もなく、
ただ単純に 「捕食」 についてのありきたりな言葉があっただけなのです。
既に訴求してあることを、今さらストレートなセリフだけで表現をしてきても、二番煎じの感じはどうしても否めなく、序盤、

    傷(いた)んだ遺体
         ↓
    新鮮な、でも死んだ肉体
         ↓
    新鮮で、生きた肉体    の一連で



        「人間存在」 の 「哀しみ」 や 「可笑しみ」


までもを感じ取ることができる奥深い空間を提示しておきながら、
低いレベルの再訴求を、この瞬間にかけてくる制作者に困惑してしまったのです。


このようなマイナス要素を抱えながらも
終盤にかけての展開はボクが期待した通りのストーリーを語ってくれました。
「銭湯のおばさん」 の葬儀の際に、妻の広末涼子女史と、 「銭湯のおばさん」 の息子である杉本哲太氏は、モックン の仕事を目の当たりにして、モックン を認めていきました。

      ここまでは予想通り。

と思っていたら、「銭湯のおばさん」 の火葬場において、

      「小さな驚き」 が
                     用意されていたのです。

銭湯の常連客でいい味を出していた 詰め将棋好きのおじさん が火葬場の職員として再登場してきたのです。 「銭湯のおばさん」 の死の場面で、寂しそうな後ろ姿を打ち出してはいたのですが、このような展開となるとは全くの意外で、ちょっと、うれしくなってしまいました。

その 火葬場のおじさん は、

        「死」 を 「門」
                     のようなものであると言い、

        「死」 は 「終わり」 ではなく、

                     一つの過程であり、
                     自分はその「門番」 である。

という考えを披露していきます。
これは今作に貫ら抜かれている死生観そのものであり、 モックン がそもそも 「納棺師」 となるキッカケとなった求人広告のコピー 「旅(立ち)のお手伝い」 にみられるように、

        「死」=「終焉」  ではなく、

        「死」=「旅立ち」  であるのです。

そして火葬場のおじさんの  「銭湯のおばさん」 への一言 「また、会おうぞ」 のセリフで、妙な妄想がボクの右脳に発生していったのです。

それは 「肉体」 というものはこの世を歩く為の、

     「有機的モバイルスーツ」    のようだな..........。

                     という、こんなSF的な妄想だったのです。
 

おくりびと その2

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年11月15日(日)02時06分18秒
  続きです


「有機的モバイルスーツ」 が劣化破損したので、それを脱ぎ捨てた。
その結果、この世に存在できる手段が無くしなってしまったのが 「死」 なのである。

という、思いに囚われていったのです。
「有機的モバイルスーツ」 なんて言葉は今作のテイストとはかけ離れたものですが、
「死」 は一つの過程に過ぎない、次なる段階に向けての 「旅立ち」 である。
という今作の世界観に触ることによって、このような言葉が思い浮かんだのです。

「小さな驚き」 をキッカケとしてこのような妄想を広げることができた今作ですが、
またまた、うれしいことにこの後には

      「大きな驚き」
                   が用意されていたのです。

この 「大きな驚き」 とは
“ モックン の失踪していた父親が亡くなり、それによって、初めて居場所が判明。
 モックンは大きな葛藤の末、父親の納棺を取り仕切る。”

という、今作においては一番実現しないであろうと思った妄想が、現実のものになったことでした。

そもそもは、中盤、チェロ演奏を社長の前で披露した際に、 失踪した父親の安否に対して語られた モックン のセリフ

     「 さあ、 もう死んでいるんじゃないですか? 」

                               で予感し、

「銭湯のおばさん」 の葬儀が終わって、唐突に父親とのエピソードである 「石文 (いしぶみ)」 のくだりを話す モックン に、 もしかして、これは 「父親の死」 の

       前フリをしているのかな?
                               と感じたのです。

しかし、「銭湯のおばさん」 が、モックン のいわれ無き 職業差別を払拭するために
(不遜な言い方をすると) 亡くなってくれて、そして次には、 モックン の 「納棺師」 としてのステップアップの為に、否、今作のエンディングの為に、タイミング良く 「父親の死」 がもたらせれていくなんて............。

         できすぎでしょー!

                     と、誰もが思ってしまうところでしょう。

しかし、鑑賞を続けていくと、そんなことなど、もうどうでも良いことのように思えてきたのです.。

何故なら、ボクはいつしか今作を

「 フラガール 」  や  「 スウィングガール 」 、
そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 。
同じ モックン 作品では  「 シコふんじゃった。 」  のように
 「 納棺師 」 という未知なる種目にチャレンジしていく

     「パフォーマンス系映画」 の一種

                        であると思えてきたからなのです。


“慣れない フラダンス や ジャズ音楽、そして 男のシンクロ や 社交ダンス、はた また学生相撲 という種目にチャレンジし、一旦は差し障り要件が発生してその上昇機運 が停滞するけれど、最後には会心のパフォーマンスによって映画は最良のカタルシスの  中でエンディングを迎える。”

そんな 「パフォーマンス系映画」 の王道を今作が突っ走ていたことに気づいてしまったのです。

今作は 「納棺」 という種目にチャレンジをし、一旦は職業差別という差しさわり要件が発生するけれど、父親の 「納棺」 という快心のパフォーマンスによって映画はカタルシスの中でエンディングを迎えるはずと、見切ってしまったからなのです。

「パフォーマンス系」 映画に

           自制を求めても、無駄!

                    なことは、経験上わかっていたことですし、

何よりも、 「納棺師」 というパフォーマンスを披露するためには、人に亡くなってもらわなければならないわけですし...。

                      と、半ば強引に割り切っていたのです。

そんな気分で鑑賞を続けていったら、またまた状勢が変わってきました。
幸いなことに、この 「パフォーマンス映画」 というキーワードを無理矢理に

       捻出するまでもなく、

死んだ父親との再会の

       必然性に遭遇
                     することができたのです。



納棺を粛々と進める モックン。
父親の遺体の手のひらを開いたらそこには小さな石が握り締められていたのです。

      これをやらせたかったのか!

                   と、この瞬間に
                   ボクの映画的興奮は振り切れていったのです。


この石は、父親の納棺を モックン が取り仕切るはずだと予感をさせたシークエンスである

       「 石文 (いしぶみ) 」  において、

                   少年時代の モックン が父親に渡していた
                  「石」 だったのです。


「 石文 (いしぶみ) 」  とは、

“大昔、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、受け取った者は、その石の感触や大きさから贈り主の心を読み解く。”

         というコミュニケーション方法であると紹介されていました。

子供時代にたった一度、モックン は父親とこの 「 石文 (いしぶみ )」 の交換をしており、父親の手に握られていたのが、その時にモックンから父親に渡された  「石文 (いしぶみ)」 だったのです。

死の瞬間に、少年時代の モックン の 「石文」 を父親が握り締めていた事に、

 家族を裏切ってしまった

        父親の深い後悔と贖罪の念

                     を感じて、心を動かされていったのです。

しかし、ここでは、そんな万人が感じる思いを強調したいのではなく、こんな思いと共に、全く違う感情がボクの気持ちを直撃していたことを、述べておきたいと思いました。


父親が持っていたのは少年時代の モックン の 「石文」 であることには間違いないのですが、 ボクにはその 「石文」 が、わけあり失踪をし、独り死んでいった 「父親」 の、

     死の直前の彼自身の 「石文」 へと

                   「変容」 していった

                            と思えてしまったのです。

失踪前の父親の 「石」 はとても立派で大きなものでした。
しかし、家族を裏切り、一緒に失踪した女性とも別れ、流れ着いた漁村の片隅で細々と生活していく中で、あんなにも

         尊大であった
                      父親の 「石文」 が削り落とされて、

         謙虚さを取り戻し、
         少年と同じ純粋さを取り戻した瞬間に

                      父親は 死んでいった。

と思えてしまったのです。そしてその事実を

         「有機的モバイルスーツ」 たる自分の遺体に託して、

                 息子である モックン に伝わることを願いながら
                 逝った......。

                         という思いに
                         激しくこだわっていったのです。


「 石文 (いしぶみ) 」  を再度説明すると、

”大昔、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、受け取った者は、その石の感触や
 大きさから贈り主の心を読み解くコミュニケーション”
                             とされておりましたが、

「おくりびと」 ならぬ、 「受け人 (うけびと)」 となった モックン は 父親の死の直前の 「石文 (いしぶみ)」 の感触や大きさから、

       父親の 「変容」 を悟り、
       父親の 「謝罪の気持ち」 を静かに受け取った

                               と思えたのです。



モックン は父親から送られたその 「石文」 を、しっかりと妻の手に握らせました。
そして次に、それを身重の妻のお腹に静かに重ねていったのです。

 「石文 (いしぶみ)」 の 「送り人 (おくりびと)」 となった モックン が、今度はこれから生まれて来る我が子に自分の気持ちを伝えていく............。

こんな象徴的なカットで今作は終わりを告げていきました。



 「有機的モバイルスーツ」 に託された 「石文 (いしぶみ) 」 によってもたされた


      父親の 「変容」 と
                    モックンの 「受容」。


この2つの変化によって、モックン の気持ちの中に形成されていた歪んだ 「父親」 という虚像が氷解し、それと同時に、次は自らがその 「父親」 というものへとなっていく ...........。

「個」 の命はこの世から 「旅立って」 いきました。
しかし、新たにその存在を受け継ぐ者の誕生を目の当たりにすることによって、そしてこれから誕生する 「命」 の存在を認識させられたことによって、
「個」 の世界観をはるかに超えた、生命の 「転生」 や 「輪廻」 という大きなうねりを感じ、ただ、その芳醇な揺らぎの中に身を委ねた鑑賞となったのです。



ボクは今作を

「 フラガール 」  や  「 スウィングガール 」 、
そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 、
同じ モックン 作品では  「 シコふんじゃった 」  のように
 「 納棺師 」 という未知なる種目にチャレンジしていく

     「パフォーマンス系映画」 の一種

                      のようなものだと早合点していました。

しかし、実際は、

 「父親」 という大きなトラウマの前に 「頑なになっていた魂」  を
 「納棺師」 となったことで解き放ち、自らが 「父親」 となる決意をする

       「連綿と続いていく命」 の物語

                       であったと結論付けたいと思います。




次回は 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 のレビューに挑戦です。

http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-97.html

 

クリエイティブな刺激をあなたに・・・

 投稿者:脚本化・狼  投稿日:2009年 8月 1日(土)00時03分56秒
  たいへんご無沙汰しております、「狼」です。
周知かも知れませんが、インディーズでひっそりと活動している脚本家です。
この場を借りて、宣伝させて下さい。

***

私のサイト「SHOCKFREE」は現在、「私」をモチーフにした、気鋭のクリエイターの作品を月一で連載しています。
これは、私の「ユニークなPR」を目的としています。
作品のPRや、CM制作に気鋭のクリエイターを起用するのは企業の常套手段ですが、
それをインディーズで、ましてや個人が試みるのは珍しいのではないか? と、考えています。
クリエイターの人選にもこだわっています。
作品を手がけているのは、全員、プロです。ツワモノを一堂に揃えました。

最近、「i-phone」のCMに映画監督のデビッド・フィンチャーが起用され、素晴らしい作品に仕上がりましたが、
あの手法だと、映像に興味がある人以外、アピール出来ないという弱点があります。
その点、私の人選は幅広く、多ジャンルに及んでいる為、映像にしか興味ない人、活字にしか興味ない人、全てのターゲットをカバーしています。
若干、偉そうに聞こえるかも知れませんが、

「今、私のサイトは熱い」

そう、勝手に思い込んでいます。
是非、この熱さを堪能して頂きたいのです。
この企画は、2010年5月まで続きます。
その間、毎月、新鮮な作品をリアルタイムで見る事が出来ます。
これは、なかなか貴重な体験ではないかと思っています。
興味ある方は、是非、ご一読下さい。以下サイトにて、ご覧になれます。
(※ナビゲーションにある「お楽しみコンテンツ」というのが、そうです)

http://www.shockfree.org

なお、狼の最新情報をお届けする「流れ星、来る!」というメルマガが御座います。
こちらも併せて読んで頂ければ、一層、「お楽しみコンテンツ」を楽しむ事が出来ます。
ご希望の方は、以下ページにて購読手続きを行って下さい。

http://www.shockfree.org/mmagazine.html

長々と失礼しました・・・。
狼は今後も精力的に活動します。

何卒、宜しくお願いいたします!

http://www.shockfree.org

 

緋牡丹博徒

 投稿者:オイカワ  投稿日:2009年 7月14日(火)20時57分48秒
  マークさんの「緋牡丹博徒 花札勝負」の感想は興味深かったです。というか、加藤泰の魅力がすごくよく伝わってきました。以前一度観ているような気もするのですが、読んだら観たくなっちゃいました。  

緋牡丹博徒 花札勝負 1

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年 7月 8日(水)22時47分46秒
  今作の鑑賞は

      冒頭から 【 ローアングルの深遠なる世界 】     に 狂喜し、

      やがて  【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】  に 驚嘆し、

      後半は  【 加藤泰作品の共通項探し 】       に 興じた


                          充実の映画体験となりました。



今作はしょっぱなの1カット目から、容赦のない 「ローアングル」攻撃が炸裂し、
その2カット後の、映画開始早々の3カット目には

     【 ローアングルによる 「3D」 効果 】  そして、

     【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】

                      とも言うべき表現訴求のエッセンスを
                          感じ取ることができたのです。



線路内、2本のレールの真ん中を 緋牡丹のお竜さん が白い着物姿でこちらに歩いて来ます。
そして、その手前の踏み切りを横切りながら 盲目の少女 がフレームインしてきました。
カメラは地面に埋めたような極端なローアングルであるために、遠くにいる お竜さん の全景を捉えても、カメラ近くを横切る 盲目の少女 の姿は腰から下の足の部分しかフォローしていないのです。

       全景の お竜さん  と、
       顔が隠された 盲目の少女。

この非日常的な構図が非常におもしろく、
また、お竜さん が奥から手前に向かって線路に沿ってやって来る

       縦の運動 と、

盲目の少女 が踏み切りを右から左へと横断する

       横の運動

との重なり具合がとっても興味深く、映画開始3カット目にして、ボクは早くも 映画的興奮 を得たのでした。


この映画的興奮を考察してみると

遠くに全景で捉えた お竜さん に対し、カメラ近くを歩く 盲目の少女 は画面上では大きな面積を占めてはいるものの、肝心の顔は写っていないのです。
どんな女の子なのかな? と疑問を生じさせる表現によって、 盲目の少女 の存在感を増幅させているこの演出に対して、ボクは

       「遠近法」 の誇張
                   を感じることができたのです。


「遠近法」 とは

近くにあるものを大きく描き、遠くのものを小さく描いて、
遠くのものと近くのものとの間にある 奥行きを表し、
立体感を表現する絵画の手法である。
                           と理解しておりますが、


普通のカメラ位置で撮影されたありきたりな 「縦の構図」 よりも、
今作のようにローアングルによって身体の一部を画面上に大胆に配置し、
非日常的な切り取り方をされた 「縦の構図」 の方が、

       近くにいる少女の存在感が より強調され、
       「遠近感」 がより一層    誇張された

                           と感じられたのです。


要するに、お竜さん と 盲目の少女 の客観的な実際の大きさの対比よりも、
ローアングル映像が作り出す

        精神的に与える存在感の違いの方が、大きい。

                           と感じられたのです。

その為、二人の距離感が、実際のものよりも強調され、

        より立体的な3D映像
                       としてボクの右脳に飛び込んできた
                              というわけなのです。

この表現手法をボクは

      【 ローアングルによる 「3D」 効果 】

                  と名付け、大いに評価をしたいと思ったのです。


こんなことを感じていたら、盲目の少女 は突然、横の運動を止め、くるっと左90度曲がって、お竜さん と同じ縦の運動を開始していったのです。

それは、盲目の少女が安全地帯である踏み切りから1段踏み降ろして、危険地帯である線路内に立ち入ってしまうことを意味します。

物語を進行させる上で重要となるこの動きに対して、今作はその極端なローアングルを活用することよって見事なまでにその動作をクローズアップさせてきたのです。
そして、この素晴らしい表現手法によって、ボクは続けざまに大きな映画的興奮を獲得することになったのです。

この再びの、映画的興奮を考察しますと、
今回のローアングルは、進行方向を変える 「作用点」 となる少女の足元を直接的に映し出せるカメラ位置となっており、しかも、今作の地面スレスレの極端なローアングルによって、足元にある 1段 の 「高さ」 と 「重み」 をしっかりと目撃させることができる

     稀有なカメラ位置   となっていたのです。

これによって 「安全地帯」 と 「危険地帯」 との境界線を彼女が越えてしまう切迫感を、

     直感的に       視聴者に植えつけることができたのです。

通常のカメラ位置では、このような地面に接した足元での出来事はフォローし切れない領域であり、それ故、この動作を強調しようとすると、足元のアップをカットで抜くか、さもなければティルト・ダウンを施すか、場合によっては移動撮影を仕掛けることになり、当然のことながらリズム感を損なうなどして、

     わざとらしい演出   になりかねないものですが、

驚くことに、今作は 「少女の登場」 から 「方向転換」、そして 「一段降り」 までを据えっ放しの1カットで表現をしてきたのです。
しかもカメラ位置が極端に低いローアングルであるために、少女の足元と、その少女の動きを気にしている お竜さん の存在さえも

     同一カットに表現   することに成功していたのです。


     近くのものは低い位置を捉え、
     遠くのものはそれより高い位置のものを捉えやすい

                        このローアングルの特長を十分に
                              活用していたのです。

この特長を言い換えると、
先ほど 「縦の構図」 という言葉を使って、奥行きの表現について話しましたが、
今作に活用されている構図は

      【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】

                        と表現できるのではないでしょうか。

近景、中景、遠景 が織り成す位置関係を 奥行き という一つのベクトルで統制している

   「縦の構図」 に、
          「高さ」 という、もう一つの方向性が加わって、

   「斜め上の構図」 という
           空間を多重の指標によって制御している、興味深い映画世界が、
           今作においては展開されていったのです。


一概には言い切れませんが、

        「近景は下部、中景は中部、遠景は上部」

                            を重点エリアとする

斜め上に向かっていくラインを意識させる 「斜め上の構図」 の世界観に強く興味を引かれたのでした。

盲目の少女の登場、そして方向転換と一段降り。 この一連のたった9秒の出来事ではあったのですが、この映像は今作を鑑賞していく上で表現上のキーとなる

      【 ローアングルによる 「3D」 効果 】 と

      【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】 の

            萌芽を感じ取ることのできた、開始早々3カット目で見つけた
            わかりやすいサンプル映像となっていたのです。


そしてこの2つのローアングル世界は様々な場面で活用され、このサンプル映像よりもその表現効果を増大させているカットに遭遇していくことになるのですが、その度ごとに語っていくと


   【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】  と  【 加藤泰作品の共通項探し 】

                   について書くスペースが無くなってしまうので

うづうづする気持ちを抑えながら、先を急ぐことにします。
 

緋牡丹博徒 花札勝負 2

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年 7月 8日(水)22時37分9秒
  先を急ごうと思いつつ、素晴らしいカットに遭遇してしまうと、どうしても思いを巡らさないわけにはいかなくてしまいました。

「珠玉の9秒」の 1分45秒後、善玉たる西乃丸一家 への お竜さん の「仁義」のシーンにおいて、素晴らしいシークエンスは再び展開されていきました。
実は、このシークエンスをキッカケとして、ボクは今作に漂っている、ある種の 奥床しさ を感じ始めたのです。

普通の監督なら、「仁義」という見せ場はドーンと正面から全身ショットを撮りたいところなのでしょうが、今作の監督である加藤泰監督は全く違っていました。
彼は仁義を切る お竜さん を ちょっと離れた隣の土間から横位置で、大きな暖簾ごしに見ていたのです。
暖簾がめくれると お竜さんの顔が現れて、閉じると顔だけ見えない。
この表現方法に触れて、不思議な言葉の組み合わせになりますが、何とも

     “ 奥床しい 仁義 ”   として受け留めていったのです。

次の2カット目は お竜さんの顔が映し出されるはず、と思いきや、今度は お竜さん の反対側にカメラが回り込んで相変わらずの、ちょっと距離感を保つ横位置カットとなっていきました。
3カット目こそは お竜さん のアップだろうと思ったこのカットは その仁義 を真摯に聞き入る 受け人 の姿を正面に据えてきたのです。

しっかりと前を向き、正座で両手こぶしを床についた誠意ある態度で お竜さん の口上を請けたまわっているのです。

お竜さん 「(略) 渡世修行中のしがなき女にござんす。行く末万端、
      お見知りおかれまして、よろしくお引き回しのほど、おねがい致します。」

受け人  「ご丁重なるご挨拶に遅れましての仁義、失礼さんにござんす。手前 (略)
      杉山貞次郎に従います、若造です。(略) 渡世の道はいまだ修行中のし
      がない者でございます。以後、お見知りおかれましてお引き立て下さい。」

このような文章にしてしまうと、ありきたりな仁義の口上でしかないのでしょうが、ゆっくりと、しっかりとした口調と、独自な抑揚の付け方によって、何故かしら、

       格調の高い伝統芸能
                       を鑑賞しているような、
                       あらたまった気持ちになったのです。

そして、このシークエンスの雰囲気を端的に表すものが仁義の終盤、上記のセリフつながりで姿勢を直す時の二人の間で交わされた会話にみることができました。


お竜さん  「ありがとうござんした。受け人さんよりお手をお上げなすって下さい」

受け人   「ありがとうござんす。ではご一緒に手をあげましょう」


この奥床しさが、他の任侠映画と今作を分かつ大きな要因なのかもしれないと感じ初めたのです。
そして、仁義という見せ場をまっ正面から見据えるようなことはせず、距離を置き、少しづつ近づいてくる、そんな奥床しい演出に加藤作品の品格を見た思いだったのです。

とこのようなことに感じ入っていたら 嵐寛寿郎氏 が善玉親分として登場をしていきました。
ここで 今作特有の任侠世界にある 奥床しさ とともにボクは

     【 加藤泰作品の共通項探し 】

                      に興じ始めていったのです。

今作は緋牡丹博徒シリーズの第3作目にあたるのですが、今作の続編的な作品で、同じ加藤泰監督によるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 にもアラカンさん は お竜さん が客人として身を置く一家の昔気質の親分として登場していました。
そして、緋牡丹博徒シリーズではないのですが、今作の加藤泰監督による名作、 「明治侠客伝 三代目襲名」 にも善玉親分として登場していたのです。
その類似したキャラクター設定からボクの脳裏に、

      ある共通の展開
                  がどうして浮かび上がってしまったのです。

その、ある共通の展開とは、上記の 「緋牡丹博徒 お竜参上」 と「明治侠客伝 三代目襲名」 の2作品とも アラカン親分は、反目する悪玉一家の策略によって襲撃され、生死を彷徨う重傷を負わされてしまったのです。

     2度あることは3度あるのか?
     それとも、五体満足のままで今作のエンディングを迎えることができるのか?

今作を鑑賞する上で、こんなことに留意するのは邪道なのでしょうが、同じ加藤泰作品つながりで、見守っていきたいと思ったのでした。


やがて、緋牡丹シリーズの重要な相手役となる、旅人(たびにん)役の 高倉健さん が登場してきました。
初登場シーンは、 お竜さん と 西乃丸一家の人間に対して、反目する悪玉一家の住所を尋ねる場面となるのですが、ここでも今作で感じた特有の

      奥床しさ
              を感じることができたのです。

西乃丸一家の人間は 健さん を反目する悪玉一家の関係者として邪険にあしらうが、 お竜さん は誠意を持って道を教えてあげ、しかも、雨の中、傘を持たない 健さん に自分の傘までもを貸してあげようとします。
当然のように 健さんは 「 ご親切だけいただいてまいります。 」 と遠慮しますが、結局はお竜さんの親切を受けていきました。
その様子を見ていた西乃丸一家の人間は自分の言動を反省。
お竜さん も最初は良い気はしなかったが、

    「 折り目の正しい旅人(たびにん)さんには、なんも罪はなかですばい 」

                   の心意気で接していたというのですのです。

実際の任侠の世界を知る由もありませんが、このような娯楽としての任侠映画は、主人公は聖人のようにどこまでも善良で、悪玉はあくまでも悪どいという極端な構図を作ってくるものですが、このシーンはそんな傾向を割り引いて見ても、語ってきた世界観は実に 奥床しい ものとしてボクは受け留めたのです。

そしてこのシーンにいて、お竜さん から 健さん へと傘を受け渡す手元のアップをたっぷりと見せてきたところから、反目する一家の客人同士の ロミオとジュリエット 的な人間関係が生まれる予感を感じ取ることができたのです。

そして、この予感は先ほどの アラカン親分 にみる不幸な連鎖と同じように、一つの共通な展開を予感させていったのです。それは、加藤泰作品において

        任侠映画の中での 「男女の機微」   を描く時は、

        「川」 が舞台として選ばれている    偶然だったのです。

先ほども引き合いに出した加藤泰監督のシリーズ6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 に燦然と輝く名場面、
雪降る今戸橋での お竜さん と 旅人(たびにん) の菅原文太さん の間で交わされた一本筋が通った、しかし情感に溢れた素晴らしいシーンは 今戸橋という 「川」 の上でした。
そして前出の 「明治残侠伝 三代目襲名」 において 鶴田浩二さん 演じる主人公と情感を交わすのが、 お竜さん というキャラクターを得る前の 藤純子さん その人だったのですが、その舞台も夕焼けが美しい 「川沿い」 の道だったのです。 そんな

      偶然が重なる中で、

今作において、お竜さん と 健さん が出会う、この雨の場面は、背景に鉄道橋が配置された場所で、その下には鉄道橋と交差する小さな木橋が奥に見えるのです。
そして お竜さん が道を教えているときに、 「この堀川ば真っ直ぐ・・・・」 とのセリフがあることからこの舞台が水まわりの場所であることがわかります。
数少ない加藤泰監督による任侠映画の鑑賞歴をフル動員して推察いたしますと、きっとこの場所が、お竜さん と 今回のスペシャルゲストであるところの 健さん との、

      男女の情感を育てる場所
                         になるのだろうと、
                         直感的に理解をしたのです。

やがて、この直感は アラカン親分の受難 という予感と共に実現されていくことになりました。
それは、健さん が悪玉親分への渡世上の義理に縛られて、アラカン親分 への刺客にされる前に、この鉄道橋下で お竜さん を待っていた という展開をみせていくのです。
これによって今作の言わば 裏鑑賞テーマ としていた

    2つの予想が矢継ぎ早に的中
                  したことによって
                  ボクは大きな興奮を得ることができたのでした。

鉄道橋下のシーンでは、ファーストシーンで登場した盲目の少女の目の手術を巡る会話を通して二人は心を交わしていったのです。
出会いのシーンは雨でした。そして、別れを秘めたこのシーンでは はらはらと雪が降っています。
雨のシーンでは、傘を持たない 健さん に お竜さん が傘を貸してあげていましたが、
今回は、その逆で、傘を持たない お竜さん に 健さん が傘を差し出すという行動が用意され、

     同じ気遣いを互いにかけている、

                 そんな心の重なり様が見て取ることができました。

そしてこの後、健さん が アラカン親分 の刺客となることで、二人の関係性が変容してしまうことを考えると、何とも切ない気分になってくるのでした。

このように、二人の叶えられない感情を盛り上げる準備は万端整っていました。
しかし、今作の 男女の機微を訴求するシーンは、背景に鉄道橋が重くのしかかるビジュアル設定としてしまっているために、叙情的なヌケの良さがなく、他の2作品、
「明治侠客伝 三代目襲名」 にみる、夕焼けが美しい 「川沿い」の道や、
「緋牡丹博徒 お竜参上」  の珠玉のシーン、雪降る今戸橋が実現した、

      任侠世界の中での サンクチュアリ (聖域)

までには昇華していなかったように感じて、大いに残念に思いました。
恐らく、今回の未消化を踏まえたからこそ、加藤泰監督は今作の続編的作品であるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 において 雪の今戸橋 という美しさを実現できたのではないかと思えたのです。


もう一つの共通項である、アラカン親分受難のシーンは、文句の付けようもない素晴らしい出来映えとなっておりました。

何と言っても アラカン親分 の刺客となるのがゲスト主演たる 健さん なのですから、他の2作品とは比べものにならない重みがあったのです。

「明治侠客伝 三代目襲名」 では 物語上重要でない者による背後からの不意討ち。
「緋牡丹博徒 お竜参上」  では、その他大勢によるヤミ討ち。であったのに対して、
今作は刺客となる 健さん の苦悩を映しつつ、正々堂々の1対1の真っ向勝負が行われていったのです。
その際の、刺客である 健さん と アラカン親分 の間で交わされた言葉が、お竜さん の仁義の場面で、そして、健さんに傘を貸してあげるシーンで、様々な場面において感じた、

    一本筋が通った、奥床しさ
                      に満たされていたのです。

健さん   「(中略) 親分さんに不本意なお願いがありまして、やってまいりまし
        た。渡世上、親分さんに恨み辛みは一切ございません。のっぴきりならね
        え義理で命をいただきに参りました。差しで勝負お願いします。どうか、
        ドスを取っておくんなさい。」

             (いきりたつ子分たち)

アラカン親分「 筋を通った挨拶をしてなさるお人の前で、不躾なまねはやめな。
        手出しするんじゃねえぞ。
        (略・健さんに向かって) どっちが倒れても、この場限りにしょう
        ぜ。」

と、アラカン親分は健さん の勝負に臨むことになるのです。
ここには、ヤミ討ちや騙し討ちなどというものが介在する余地などなく、折り目正しい、男の勝負を挑む 健さん と、その心意気に 死を覚悟して受けて立つ アラカン親分 の姿があるのです。

     奥床しい。
              場違いな言葉かもしれませんが、
              ボクにはしょうがなくも、そう思えてしまったのです。

渡世の義理のために刺客となり、そして、相手の心意気に対して死を覚悟して決闘を受ける。
尋常では理解できない世界ではありますが、二人の男の魂の対峙の前に、襟を正す気持ちになったのです。

重傷を負いながら 悪玉一家への報復を諌めるのは、他2作のアラカン親分と同じですが、そんな身でありながら、「勧進賭博」 という公の場を取り仕切り、出血を抑えながらの気丈な振る舞いを見せ、そして死を迎える展開は、

     荘厳な迫力に満ちて、

            他の2作とは比べ物にならないほどの充実ぶりだったのです。

「男女の機微」 という側面では残念な結果であった今作は、「アラカン親分の受難」 という側面で捉えると、非常に素晴らしい出来だと高く評価します。
 

緋牡丹博徒 花札勝負 3

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年 7月 8日(水)22時30分5秒
  忍耐に忍耐を重ねた末に、今作はとうとう

     悪玉一家への殴り込み  という
     カタルシス
               へとなだれ込んでいきます。

この流れは任侠映画におけるお約束の展開となっており、まるで水戸黄門における 「葵の印籠」 的な

     クライマックス終結方法   とも言えます、

この一番の見せ場に至って、突如としてその存在感を飛躍的に大きくしていった人物がいたのです。
それはシリーズの脇役的人物であり、今回は終盤になってやっと登場した 不死身の藤松 という存在だったのです。
彼は お竜さん の兄貴分である 道後の熊虎 の子分という立場ですが、悪玉一家に一人で殴りこむ お竜さん の気持ちを察して同行を申し出るのです。

たったこの1シークエンスだけで 不死身の藤松は、今作のゲストスターである 健さん を、ボクの心の中で大きく超えていってしまったのです。

雪降る中を一人、悪玉一家に殴りこみをかけようとする お竜さん に傘を差し出す 不死身の藤松 。

藤松 「叔父貴(自分の親分の兄弟分だから お竜さん をこう呼ぶのでしょう)、
    お供しまっせ。  (中略)  行くな 言われても行きまっせ。叔父貴 一人行
    かせて四国にのこのこ帰ってみなはれ、 わい、親分に絞め殺されますがな。」

と朗らかに、笑みさえ浮かべて言うのです。お竜さん をはじめ 健さん、そして アラカン親分 の主人公級の方々は勿論ですが、今作においては、不死身の藤松 や冒頭の 仁義の受け人 など、脇を固める存在までもが、

     奥床しく
             振舞っていくのです。

そして 不死身の藤松 が 「わい、親分に絞め殺されてますがな」 と殴りこみ同行の意志を告げ終わった瞬間、流れるんですよ。
何がって? 緋牡丹のお竜 のテーマソングが流れるんです。 あまりにも絶妙のタイミングだったものだから、背筋がブルッと振るえる感覚に襲われました。

雪降る中、お竜さん に傘を差しかけながら、テーマソングを従えて、殴りこみの道中をいく 不死身の藤松 を

      カッコイイ
               と心底思ったのです。

しかも、今作において相手を気遣う象徴として捉えた 「傘」 という小道具を持ちながらの道中ですからなおさらズルイ。

これでは 不死身の藤松 に食われてしまうと心配した瞬間、定石通りに今作のゲストスターである 健さん は、悪玉一家への殴りこみに、お竜さん達の助っ人として大立ち回りを演じていったのです。
よしよし、と鑑賞していくと、 あれ! あれ? 不死身の藤松 にポイントを持って行かれそうだから

     焦ったのでしょうか?

ゲストの 健さんが、シリーズ主人公の お竜さん を差し置いて、何と、今作の悪の象徴である悪玉親分を成敗してしまったのです。

この瞬間にボクは非常に残念な思いに打ちのめされていきました。
なぜなら、この瞬間に今作は 「緋牡丹博徒」 という独自の美学を持った任侠映画ではなくなってしまい、健さん が主人公を務めている 「昭和残侠伝」 や 「日本侠客伝」 という他の任侠シリーズに変容してしまったと感じたからなのです。

冒頭の お竜さんの 仁義のシーンで、そして、雨の鉄道橋の下で、アラカン親分受難の場面で感じていた今作の美徳である

     奥床しさ
            をかなぐり捨てて、

「俺が東映のドル箱スター。 高倉健 だ!」 と 「緋牡丹博徒」 の映画世界を乗っ取らんばかりの出しゃばりようには、正直、失望をしてしまったのです。

そして、健さん が悪玉親分を討ってしまったことによって生じる

    構造上の不手際も
               露呈されていったのです。

それは、この選択をしたことによって、不本意ながら悪玉親分によって刺客をやらされた 健さん の恨みのみが強調されてしまい、アラカン親分 の不幸や、本文では触れていませんが、一人殴りこんで死んでいった 受け人さん や 盲目の少女の母親である “ニセお竜” の無念 がどこかに行ってしまったと感じるところにあります。
彼らの気持ちを代弁してくれる

     唯一の存在

である お竜さん によって悪玉親分がトドメをさされなかければ、全ての恨みが未消化のままで、宙ぶらりんなエンディングを描いてしまうと言うのに、このような構造的とも言える感情の面での不整合が発生してしまったのです。

この行為は 助さん や 格さんが

     黄門様をないがしろにして
     「葵の印籠」 を勝手に掲げて、悪代官を懲らしめてしまったようなもの

                              といえるでしょう。

     うーん、しっくりこない。


様々な映画的興奮をもたらしてくれた今作ではありましたが、終盤にして突如として今まで積み上げて来た稀有な世界観を投げ打って、釈然としないままに終わりを告げていきました。
「あーもったいない! あの出しゃばりさえなかったら完璧だったのに」、と嘆いても仕方がないことですので、ボクの脳内では、悪玉親分を殺ったのは、今作の主人公 お竜さん であった。ということに変換しておいて、強引に納得をさせたのでした。



              今作を総括すると、


映像演出的には   【 ローアングルの深遠なる世界 】    に 狂喜し、

人物描写的には   【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に 驚嘆し、

個人的には     【 加藤泰監督作品の共通項探し 】    に 興じた


                        素晴らしい映画体験となりました。



加藤泰監督作品で未見である

       シリーズ7作目  「緋牡丹博徒 お命頂戴します」 にも

                 アラカン親分 が出演をされていることですので、
                 機会があれば、「アラカン親分の受難」 が

       4たびに渡って繰り返されるのか?

そして、7作目 「緋牡丹博徒 お命頂戴します」 の旅人(たびにん) さんである 鶴田浩二氏 との間で交わされる であろう 男女の機微が、 「川」 がらみの場所で進行し、

        無垢なる 聖域(サンクチュアリ) を形成していくのか?

               について観察をしてみるのも、一興かな? と思いつつ
               今作のレビューを終えるのでした。


次回は 「おくりびと」 をアップさせていただきます。

http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-93.html

 

バタフライ・エフェクト1

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年 4月19日(日)11時33分23秒
  更新おめでとうございます!

で、今回は「バタフライ・エフェクト」 をアップさせていただきます。




惜しい、実に惜しい 。


これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。



■ 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」
            このカオス理論にインスパイヤーされた今作のプロットは良い。

■ オープニング・タイトルもイマジネーション豊かで秀逸な出来だ。

■ エンディングも情感に訴える素晴らしいものであった。



が、しかしだ、この素晴らしい要素を結びつけるべきディティールの数々が、残念ながらボクの期待をことごとく裏切っていったのです。


今作の出だしは非常に素晴らしく、今後の展開を大いに期待させるものではあったのです。
主人公である エヴァン が追っ手から逃れる緊迫感あふれるシーンから始まり、オープニング・タイトルに至っては

   「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏側では台風を起こすこともある 」

          というカオス理論から発想を得た秀逸な内容となっていたのです。



「蝶の羽ばたき」 が、やがて 「右脳と左脳」 の非対称のいびつな収縮運動にリンクしてきたことによって

   「脳の機能に大きな関係が生じてくる」

                  ことを予感させる秀逸なタイトルでありました。


そして矢継ぎ早に今作は、このオープニング・タイトルから一転して、カラッとしたアメリカの典型的な住宅街に場面が急展開をしていったのです。
追っ手から逃れる緊迫のオープニング・ショットから始まって、 「蝶」 と 「脳」 をフューチャーした秀逸のオープニング・タイトルにかけて、 「渋い色彩」 が続いたところに突然、ヌケの良い景色が登場したワケですから、ボクの心の中は

    ハッとするような開放感に
                     溢れていったのです。

向こうからスーッと伸びてきている坂道がこちら側に迫ってきて、その坂の上からMTBに乗った2人の少年が疾走してきました。
どちらかと言えば 「陰」 な映像が続いていたところに、一転しての晴れやかで心躍る映像が提示されてきたことに、 対比の妙 を感じ、今作に対する期待はますます高まっていったのです。
2台のMTBがドンドン近づいてきます。爽やかなスピード感に乗って、しばらくは 「夢の世界」 が提示されるんだ、
と確信した瞬間、MTBはあっと言う間にボクの視界を通り過ぎ、フレームの外へフッ飛んで行ってしまったのです。

    んっ !!   どうしたんだ ?


信じられないことに、カメラは勝手にMTBへのパンニングを止めてしまったのです。


残念ながら、今作の興味はパンニングの途中にいる今作の主人公、7歳時のエヴァン が庭先で愛犬と戯れているシーンに移っていってしまったようなのです.........。


惜しい。
実に、惜しい。

心の底からそう思いました。



緊迫のオープニング、抽象的なタイトル・バックと続き、それらを 軽やかなスピード が引き継いで本編が開始されていくはずと、期待が大きく膨らんだ矢先に、 MTBを放棄し、 スピード という高揚感をあっさりと捨ててしまった今作の制作陣の選択に疑念を持ってしまったのです。

庭で愛犬と停滞している主人公の映画なんかではなく、MTBで疾走していく二人の少年の映画を観てみたい衝動に駆られたのです。  「停滞」 と 「疾走」 どちらかをチョイスできるとしたら、ボクは迷わず

     晴れやかなスピード
                  を選んだことでしょう。


今作は、序盤においては非常に素晴らしい印象をボクに与えていきました。しかし、本題が始まると、 いや、このように本題が始まる一瞬前から、ボクの期待と大きなズレを生じていったのです。
そして、このズレを脳内で修正していくことが、今作を鑑賞する上での一番大きな作業となっていったのです。


気を取り直して鑑賞を続けていくと

       「記憶喪失」 というキーワード

                       が登場してきました。

 「バタフライ・エフェクト」 というカオス理論からの題名と 「蝶」 の羽ばたき、そして 「脳」 の収縮 というパーツが本格的に連携し始めてきたのです。

「記憶」 をめぐる映画 ですから、「記憶喪失」 というキーポイントを時間軸に沿ってしっかりと理解していかなければ、

      制作者のメッセージ

                 を受け止めることができない、と直感したのです。


そう思っているうちに、今作には

      20歳 という 現在 と、
       7歳 という 子供時代。 そして
      13歳 という 思春期。

                 この3つの異なる時間が関与し始めていきました。


混乱しないように、主人公が直面する 「記憶喪失ポイント」 を時間軸に沿って整理してみることにします。

7歳時に発生した 「記憶喪失ポイント」 は

   《 1番目 ・ 殺人の絵 》
            授業中に発生。
            「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた

   《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
            自宅で発生。
            キッチンで包丁を (殺意ありげに) 持っていた

   《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
            幼馴染の 妹ケイリー、兄トミー の家の中で、彼らの父親に
            いかがわしいビデオ撮影をされる際に発生

   《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》
            精神病院へ父親を面会した際に発生。
            気が付くと父に首を絞められていた

という以上の4点。
そして、それから6年後。13歳の思春期を迎えた時間には
7歳時にも登場した、幼馴染の 妹ケイリー 、兄トミーが重要な役割を演じていきます。

   《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
            粗雑な 兄トミー 主導で他人の家の郵便受けを
            ダイナマイトで吹き飛ばす甚大なるいたずらの最中に発生。

   《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》
            主人公エヴァン と 妹ケイリー のキスに激高した
            粗雑な 兄トミーが、エヴァン の愛犬を焼き殺す場面で発生。

このように、7歳時の4点と、13歳時の2点。 計6点の 「記憶喪失ポイント」 が提示されていったのです。 そして次には、この 「記憶喪失ポイント」 を核として 今作を推進していく

     「映画のルール」
                 が提示されていきました。


それは

 “自分の日記 ( 「記憶喪失」 発生時ににその状況を書き留めておいた )を
  読み返すと、 その 「記憶喪失ポイント」 に時空を超えてタイムリープを
  することができる。”

                                           というものでした。


今作の映画世界は、この 「映画のルール」 によって完全支配されることになるのですが、その側面から今作の展開を推察していくと、

20歳の心を持った エヴァン が

7歳時に起こった 「記憶喪失ポイント」

          《 1番目 ・ 殺人の絵 》
          《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
          《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
          《 4番目 ・ 精神障害の父からの殺意 》      に加え、

13歳時の
          《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
          《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》

という6個の 「記憶喪失ポイント」 にタイムリープをして、失われた記憶を埋めていく
というものになるようです。




↓ 制限文字数で語りきれず、あと2回に分けています
 

バタフライ・エフェクト 2

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2009年 4月19日(日)11時12分47秒
  続きです


やがて、今作の映画世界を推進していくための 「映画のルール」 が提示された次には、この 「映画のルール」 を駆使して成し得るべき、映画の到達目標点とも言える、

      「主人公の目的」

                 が提示されていきました。


 エヴァン は、失われた記憶を確認すめるために、13歳時にサイドミラー越しの別れを演じた幼馴染の ケイリー と7年ぶりに再会をしました。 ケイリー の父親によってなされた

7歳時の
    《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
               幼馴染の 妹ケイリー、兄トミーの家の中で、彼らの父親に
               いかがわしいビデオ撮影をされる際に発生

の事実を確認したところ、彼女の封印していた悲しい記憶を呼び覚ましてしまったのでしょう。 結果的に彼女を自殺に追い込んでしまったのです。

ここで、 「記憶喪失ポイント」 の種まきに終始していた今作に、成し得るべき到達点である「主人公の目的」 が提示されていったのです。

それは、タイムリープという 「映画のルール」 を活用して過去に戻り、その過去を変えていくことで、命を落としてしまった

     ケイリー を救うこと
                    だったのです。


当然のことながら エヴァン は ケイリー を自殺に追い詰めるほどの大きなトラウマを焼き付けた、7歳時の

     《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》

という 「記憶喪失ポイント」 に 戻って行くのです。そして、いかがわしい撮影をしようとする ケイリー の父親を一喝し、その行為を封印させたのです。
過去を変えた瞬間に、7歳時のその時点から エヴァン と ケイリー の今までとは違った人生が走馬灯のように提示され、夢から覚めたように、全く異なった20歳の エヴァン が始まっていたのです。

過去に戻ってトラウマを払拭させたことによって、幼馴染の ケイリー は、前回の人生での冴えないウエィトレスなんかではなく、華やかな女子大生としての人生を謳歌していたのです。  ここでオープニングに提示された

   「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」

                      の意味を実感することができるのです。

7歳の時に ケイリー の父親を一蹴し、いかがわしい撮影をさせなかった という
「小さな蝶のはばたき」 で、 ケイリー はキャピキャピの女子大生となり、エヴァン とナイスカップルというバラ色の人生へと、プラス方向の 「台風」 が吹き荒れてたのです。
しかし、今作はここで 「めでたし、めでたし」 の大団円を迎えるわけもなく、ここで マイナス要件としての

    もう一つの 「映画のルール」
                       を突きつけてきたのです。

それは、「何度も過去を変えて不幸を取り除こうとしても、結局は誰かしら不幸に陥ってしまう」 という、興味深いストーリー展開だったのです。
先に紹介した、ストーリーをグイグイと前に進めていく 「タイムリープ」 を

     【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】
                           とするならば、

今回新たに提示された、誰かしら不幸に陥ってしまうという 「映画のルール」 は

     【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】
                           と言うことができるでしょう


タイムリープをして、過去を変えていく
     【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 と

積み上げた物語をリセットする方向に持っていく
     【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が絡み合い、

そこに、7歳時と13歳時の 「記憶喪失ポイント」 が関与をしだして、 なんとも典雅な3重奏の調べを奏でるのです。


とボクはこの時点ではそんな映画体験ができることを真剣に期待をしていたのです......。


前述のように、ところどころに素晴らしい要素が散りばめられた今作ではありますが、それらを結びつけるディティールの数々が、ボクの期待をバッサリと裏切っていったのです。
この思いは、7歳時の

    《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》

を阻止しただけで、エヴァン と ケイリー のバラ色の 「第2の人生」 が始まっていくくだりから既に感じ始めていたのです。
何故なら、 《 いかがわしい撮影 》 という マイナスポイントを是正しても、時制的にその後にくる

   《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》

               を始め、何よりも13歳時に遭遇した 重大な出来事、

   《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
           粗雑な 兄トミー 主導で、他人の家の郵便受けを
           ダイナマイトで吹き飛ばす甚大なるいたずらの最中に発生。

   《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》
           主人公 エヴァン と 妹ケイリー のキスに激高した
           粗雑な 兄トミー が、エヴァン の愛犬を焼き殺す場面で発生。

という、2つの大きな傷跡を残した 「記憶喪失ポイント」 までもが、軽くスルーされていったことに、大きな違和感を感じてしまったからなのです。

ボクは 「時」 というものを

        一瞬一瞬が絶え間なく積み上げられて、
        緻密な関係性を築いた結果が

             「今」 へと結実している、

                      連続的なもの


と思っているのですが、今作においては

      7歳時の 《 3番目 》 とい1点 と20歳時の 「今」 。

                 この2点しか制作者の配慮がなされていない、
                 非常に薄っぺらい印象を持ってしまったのです。

7歳時のエヴァンの 「小さな蝶のはばたき」 が、13歳時のとてつもなく大きな2つの不幸までもをカバーする 「台風」 になったとでも言うのでしょうか?
少なくともボクには、そんな大きな効果が実感できる是正とは思えませんでした。



そしてボクの今作に対する期待が、残念ながら空振りに終わってしまうことを確信したのが、 「第2の人生」 において

   【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】
                によって、エヴァン が犯罪人として投獄されてしまい、
                その窮地から逃れるための

   【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】
                を行使する方法にあったのです。


【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】  を司る 日記帳 を奪われた、スリリングな奪還劇の中で、迫り来る攻撃者を瞬時でかわしながらの タイムリープ は大いにスリリングで、その展開を楽しみはしました。

 でも、

   「時間」 という概念を、
    一つ一つの 「瞬間」 が、時間軸に沿って積み上げられた膨大な


           「積み木構造」    である



と思い込み、 「記憶喪失ポイント」 の順列を意識してきた者としては、今回の移行がドサクサ紛れの無計画なタイムリープであったことに苛立ちを覚え、しかも、行き着いた先が、よりによって最後の 「記憶喪失ポイント」 となる

   13歳時 《 6番目 ・  愛犬の焼き殺し 》 であったことに、

                         大いに失望してしまったのです。


 《 6番目 》 へと一気に移行してしまったということは、スルーされていった

     《 4番目 ・  精神障害の父親からの殺意 》       と
     《 5番目 ・  ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》  の

「記憶喪失ポイント」 に、 エヴァン は必ずこの後タイムリープをし、何らかの是正処置を行うことが容易に予測がついてきます。
そして 「時制的に新しい」  《 6番目 》 は、 「積み木構造」 の土台となるこの 《 4番目 》 や 《 5番目 》 で行われる是正によって、その様相を大きく変えてしまうことが予見できてしまっているのです。
ですから、そんな脆弱な 《 6番目 》 を、こんな早い順番に提示しても、

    誰が真剣に観るというのだろうか !?

                     という疑問に苛まされてしまったのです。


やっぱり今作の制作陣は、  当該 「記憶喪失ポイント」 と 「現在」 という2つの 「時制」 にしか注意を払っていないようなのです。   少なくとも、

  「時間」 という概念を、
   一つ一つの 「瞬間」 が、時間軸に沿って積み上げられた膨大な

         「積み木構造」


               だなんて思ってないことだけは、確かなようです。



ボクは今作に対してもう少し

      「時制」 を考慮した理論的な展開

                     を期待していたのです。


 例えば、

 《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 という 「記憶喪失ポイント」 から
 【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】  を開始して 「ケイリー の自殺」
 を回避したのなら、そのアドバンテージを保持したまま、 新たに発生した
 「エヴァン の投獄」 を回避するために、次の 「記憶喪失ポイント」 となる

 《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》 に移行。何らかの是正処置に
 よって、「エヴァン の投獄」 を削除し、少しづつ 「主人公の目的」
 (ケイリーや身近な者を救う) に近づけていくという展開を期待していたのです。

  そして当然のことながら、ここでも、どうしても生じてしまう
 【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 によって、時制的に次なる
 《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》   に移行して
 「ケイリー の自殺」 や 「エヴァン の投獄」 のリスクを制御しながら、
 新たな元凶を削除する。 しかしそれでもまた、「主人公の目的」 は遂行できずに
 やっと最後である次の

 《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》  でほぼ「主人公の目的」 は達成する

                        という構造を期待をしたのです。


ついでに言うと、タイムリープは 《 3番目 》 という順番から始めていきましたので、まだタイムリープをしていない、そして 《 3番目 》 より 「古い時制」 となる、 「積み木構造」 の土台である

    《 1番目 ・ 殺人の絵 》
             授業中に発生。
            「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた

    《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
             自宅で発生。
             キッチンで包丁を (殺意ありげに) 持っていた

  への是正によって、今まで築き上げてきた 「新しい時制」 となる
  《 3番目 》 〜  《 6番目 》 で得られた成果が揺らぎながら、思いも    よらないラストが待ち受けているはず。

と 「是正の集積」 と 「突然の転調」 による珠玉の結末までを、密かに夢見ていたのです。


 完結編は次に
 

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