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天然コケッコー の続き
廃校 と 過疎化 という問題提起から発生した 映画世界の 「変容」。そして、
それに伴って顕在化してきた、演出スタイルの 「変容」。
“ゴウゴウ現象” と同じように、演出バランスを崩さんばかりに、自己主張を
してきたカットが終盤にあと2つ、ボクの気持ちに引っかかっていったのです。
1つ目は 広海クン の学生服のボタンを付け直してあげる、そよチャン と
広海クン のツーショットに見られたものでした。
そのシークエンスは3分40秒間もの間、据えっ放しの1カットという
特徴的な訴求方法を打ち出してきました。
東京の高校に 広海クン が入学して、離れ離れになってしまうかもしれない、
という悲しい予感の中での二人のヤリトリに対して、ちょっとルーズな画角で、
1カット撮りっぱなしという技法を監督は当ててきたのです。
ともする冗長になりがちな表現方法ですが、そよチャン と 広海クン
の二人の微妙な距離感や、「もどかしくも、ぎこちない」 空気感がうまく
出ており、
不器用な思春期の初恋
という側面をよく感じ取ることができたのです。
長すぎても、短すぎてもこの気持ちをうまく伝えることができなかったであろう、
微妙なバランスに立っていたと評価します。
と思った瞬間、ボクは思い出したのです、序盤に感じて深く考えずに放棄を
してしまった
「もどかしくも、ぎこちない」 感覚を...。
小中校生6人の気心知れた世界に対比するように提示された、
キャッチコピーにおける2人の世界が 「もどかしくも、ぎこちない」
空気感であったことを今更ながらに知ったのです。
どうやらボクは「行って帰ります」 のコミュニティの居心地の良さに埋没し、
監督が仕掛けた
不器用な思春期の初恋
という側面を評価することができなかったようなのです。
反省...。
そして、ラストシーンにもう1つ、演出バランスを崩した監督の自己主張に
遭遇することができました。
バレーボールの攻撃テクニックに 「1人時間差攻撃」というものが
あるけれど、この表現方法は
「1カット内時間差攻撃」
とでも言うべきものでした。
“卒業式後、そよちゃん が思い出の一杯詰まった教室から廊下へと出
て行きました。その後、カメラはゆっくりと反対の窓際に移動してい
くのですが、そこにはさっき出て行ったはずの そよちゃん が窓の
外から教室を見ていたのです。 ”
窓際の そよちゃん が高校の制服を着ていることから 教室を廊下側に
出て行った日と、窓の外にいるシーンとは別の日の設定であることが
理解することができました。
監督は卒業式後の教室のシーンをカットを割ることなしに持続させて、
1カットで何日後かの校庭入学祝賀会のシーンに移行させていったのです。
だからこそ、そよちゃん は高校の制服を着ていたというわけなのです。
この 「1カット内時間差攻撃」 の効能としては、前カットの感情を
持続させたまま時間が経過し、その間の
成長や変化、そして時間の移ろいを強調
できる手法であると考えます。
当初、今作におけるこの表現の効果を評価することができなかったボクですが、
前述の、序盤における 「不器用な思春期の初恋」 を再評価した後に、この
「1カット内時間差攻撃」 の効果についても再発見することができたのです。
思い出の一杯詰まった教室を中学時代の そよちゃん が様々な思いを胸に
出て行くわけですが、この1カットの終盤で映し出された窓際には、そんな
中学校時代の自分を慈しみながら
外から見守っている、高校の制服に身を包んだ そよちゃん がいたことを
今更ながらに思い出したのです。
この表現は そよちゃん の中学校時代という思春期の1つの過程が終わり、
次なる高校時代という大人の階段を そよちゃん が1歩登ったことを
象徴的に描いていると思えたのです。
そうなのです。この効用を初見の段階でボクはまたしても見逃してしまっていた
というわけなのです。
さらに反省!
今作は 廃校 や 過疎化 という問題を提起しておきながら、何の解決策も
見せないままに、無責任に終わりを告げていきます。
しかし、このように今作を再評価することができたボクには、ドラマチックな
解決策が提示されず、流れに身を任せたようなこの終わり方こそが今作の
世界観にふさわしいと思えてきたのです。
なぜなら 廃校 や 過疎化 という問題は昨日、今日で突然発生した
ものではなく、元々、静かにこのコミュニティと共存していた。という
客観的な事実に気付き始めたからなのです。
これにより前述の
“このコミュニティには 過疎化 という問題があったからこそ
「行って帰ります」 の特別な優しい空間が生まれたのではないだろ
うか? 数少くなくなってしまった子供たちを村人達が心から大事に思
っていたからこそ、このような緩やかな空間となっていったのではな
いだろうか? ”
という主観的な直感が真実味を帯びてきたのです。
そうなのです、ボクが心惹かれたこのコミュニティは、 廃校 や 過疎化
という
【 終わりがある 儚さ 】
【 終わりがある 愛おしさ 】
【 終わりがある 美しさ 】
があったからこそ、生成され、醸成されていった世界だったのです。
まとめますと、今作は
「行って帰ります」 を育んだ 分校 と、
純粋で無垢な思春期前期の そよちゃん。
その両方が並存する最後の数年に立ち会うことができた
幸福な映画であり、
そして、それらが
損なわれてしまう予感の中に
儚い美しさ を感じ取れる映画であったのです。
そして何よりもボクが強調しておきたいのは、今作が 廃校 や 過疎化
という問題を劇的に解決してしまうような、ご都合主義でドラマチックな
終息方法を選ばなかった点にあります。
今作が選んだのは、静かで、力強い希望を持たせる
「人の成長」
を描いて終わることだったのです。
自然の流れに抗わず、穏やかに平和な未来を祈り続ける。
そんな姿勢を貫いて今作は終わりを告げていきました。
これこそが 「行って帰ります」 の世界観にふさわしい終息方法であった。
と主張して、今作のレビューを終えることにしましょう。
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