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天然コケッコー その2
春。そよちゃんの弟である 浩太郎クン が中学生になっていきました。
しかし小学校には新1年生が入学しなかったようです。
いや、それどころではなく、この村には2年生になった さっちゃん
を最後に子供が生まれていないという事実が判明したのです。
穏やかな平和に満ちたこの映画に慣れ、平穏無事を願った矢先に、
突如突きつけられた
廃校
というドラマチックな影。
今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校 という響きは、
必要以上にボクの心を震わせていきました。
この小中学校の人口分布図を学年順に書くとするならば、
2 2 1 0 0 1 0 1 0 となり、
しかもこれ以降子供がいない事実を加味するとさらに
0 0 0 0 0 と 虚しい数字が続いていって
しまうのです。
浩太郎クン が中学校を卒業する3年後には、今、小学生である さっちゃん
と かっちゃん の姉妹たった二人きりの分校となるようなのです。
いや、前述のように廃校になってしまう可能性が高いのです。
彼らの家族のようなコミュニティが消滅するかもしれない、
この不可避な悲しい予感は、
【 終わりがある 儚さ 】
【 終わりがある 愛おしさ 】
【 終わりがある 美しさ 】
に昇華していくようでした。
終わってしまうから、変容してしまうから、今のこの一瞬一瞬が愛おしい、
そんな前述の
小津作品にみる美学
を感じ始めたのです。
そして、よく考えるとその思いは、
短い一瞬で変わり、すぐに大人になってしまう、
今作の主人公 そよちゃん の 「思春期」
というものにも投影されているような気がしてきて、この思いにこだわりを
持ってしまったのです。
「行って帰ります」 を育んだ 分校 と、
純粋な気持ちを持ちえた そよちゃん。
その両方が並存する最後の数年に立ち会える
映画だったのか?
そして、それらが
損なわれてしまう様を見届けさせられる映画なのか....。
と、ちょっと感傷的になってしまいました。
そして、 廃校の予感 から顕在化した
過疎化 という大きな問題についても考えを巡らせていたら
“このコミュニティには 過疎化 という問題があったからこそ
「行って帰ります」 の特別な優しい空間が生まれたのではないだろ
うか? 数少くなくなってしまった子供たちを村人達が心から大事に思
っていたからこそ、このような緩やかな空間となっていったのではな
いだろうか? ”
という思いにも取り付かれていったのです。
そして何よりも、「行って来ます」 を意味する 「行って帰ります」の
本当の意味は、
「 行って、(そしてまたここに) 帰っておいで。 」
という、少なくなってしまった子供たちを慈しむ。そんな、大人たちの
気持ちが表れているように思えて、ならなかったのです。
今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校、そして 過疎化
という突然の問題提起は必要以上にボクの心を震わせ、そして様々な
考察の種をも蒔いていったのです。
そんな数々の 「気づき」 が訪れた後に、今作の根幹に関わるとても
大きな 「変容」 が発生していたのです。
それは、頑なにオーソドックスな演出にこだわってきた今作の監督による
演出スタイルの 「変容」
というものでした。
この 「変容」 は東京への修学旅行の際、人口密度の高さにに疲労困憊して
東京に対しての違和感をもってしまった そよちゃん のシークエンスに
表れていました。
両方の耳元に手をかざして、微かな音や声を聞き取ろうするポーズ
(羞恥心の上地クンが ヘキサゴン! と言いながら質問を聞き逃すまいと
するあのポーズです)
を故郷の山の前ですると ”ゴウゴウ” と山の音が聞こえることを
そよちゃん は発見し、序盤に 「行って帰ります」 のメンバーにも
教示していました。
そんなポーズを、そびえ立つ都庁を前にして行ってみたところ、ここ東京の
地においても故郷と同じ “ゴウゴウ” の音がすることに気づいたのです。
その
“ゴウゴウ現象”に聞き入りながら歩く
そよちゃん のバックが
わざとらしくも そらヌケとなってきました。
【 そらヌケ − 背景に何も配置せずに、空(そら) のみにすること】
何かがが始まるぞ。と予感した直後、そのカラの青空の空間にゆっくりと
フレームインしてきたものは、東京タワー や 飛行機 や キリン や
国会議事堂 の画像だったのです。
今回の修学旅行で見学をした場所なのでしょうが、いきなりのSFX(?)を
駆使した合成画面が、それまでの演出リズムと明らかに違えてきたので、
ここが監督の訴求点であると感じたのです。
東京に居心地の悪さを感じていた そよちゃん のことでしたので、
ボクはてっきり そらヌケ の場所に、故郷の山が映し出されて、
ある種の 退行現象
が提示されてしまうのかと心配していたのですが、
前向きな感情の中でこの修学旅行が終われたようなので、ちょっと安堵した
のでした。
都庁の前でも、故郷と同じ “ゴウゴウ現象” があったということは、
東京タワーでも、空港でも、上野動物園でも、国会議事堂でも “ゴウゴウ現象”
は現れたはず、と思えたのではないでしょうか。
それによって、「行って帰ります」 の島根の村 と 東京 とでは人口密度
や人間関係密度という側面においては全く違うけれど、山と同じように
“ゴウゴウ” も聞こえることだし、本質的には異質なものではなく、
萎縮する必要もなければ、
疎外されるものではない。
ということを、きっと悟ったのではないでしょうか、
そんな思いになったからこそ、 “ゴウゴウ” のシークエンスにおいて、
修学旅行で見学したモノを今一度、自らのイメージの中で反芻するかのように
そよちゃん の そらヌケ に東京タワーや空港が現れてきたのだと
思ったのです。
このような小さな成長の連続によって、人は子供時代を卒業して大人へと
変わっていくのでしょうね。
他者の存在を理解し、容認し、尊重することによって、自らのキャパシティを
広げていくことになるのでしょう。
このシークエンスは島根の田舎しか知らなかった そよちゃん がそれ以外の
環境を受け入れ、一歩大人に近づく瞬間を目撃できるものであったと感じました。
しかし、自分の引き出しを広げてくということは、元々身につけていた要素の
構成比を小さくしてしまうことに他ならないわけですから、そよちゃん の
源流が 「行って帰ります」 の世界であることを考えると、それに魅力を
感じて、今作を鑑賞していく原動力としているボクとしては、ちょっと複雑な
気分となったのでした。
次に続く
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