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続きです
「有機的モバイルスーツ」 が劣化破損したので、それを脱ぎ捨てた。
その結果、この世に存在できる手段が無くしなってしまったのが 「死」 なのである。
という、思いに囚われていったのです。
「有機的モバイルスーツ」 なんて言葉は今作のテイストとはかけ離れたものですが、
「死」 は一つの過程に過ぎない、次なる段階に向けての 「旅立ち」 である。
という今作の世界観に触ることによって、このような言葉が思い浮かんだのです。
「小さな驚き」 をキッカケとしてこのような妄想を広げることができた今作ですが、
またまた、うれしいことにこの後には
「大きな驚き」
が用意されていたのです。
この 「大きな驚き」 とは
“ モックン の失踪していた父親が亡くなり、それによって、初めて居場所が判明。
モックンは大きな葛藤の末、父親の納棺を取り仕切る。”
という、今作においては一番実現しないであろうと思った妄想が、現実のものになったことでした。
そもそもは、中盤、チェロ演奏を社長の前で披露した際に、 失踪した父親の安否に対して語られた モックン のセリフ
「 さあ、 もう死んでいるんじゃないですか? 」
で予感し、
「銭湯のおばさん」 の葬儀が終わって、唐突に父親とのエピソードである 「石文 (いしぶみ)」 のくだりを話す モックン に、 もしかして、これは 「父親の死」 の
前フリをしているのかな?
と感じたのです。
しかし、「銭湯のおばさん」 が、モックン のいわれ無き 職業差別を払拭するために
(不遜な言い方をすると) 亡くなってくれて、そして次には、 モックン の 「納棺師」 としてのステップアップの為に、否、今作のエンディングの為に、タイミング良く 「父親の死」 がもたらせれていくなんて............。
できすぎでしょー!
と、誰もが思ってしまうところでしょう。
しかし、鑑賞を続けていくと、そんなことなど、もうどうでも良いことのように思えてきたのです.。
何故なら、ボクはいつしか今作を
「 フラガール 」 や 「 スウィングガール 」 、
そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 。
同じ モックン 作品では 「 シコふんじゃった。 」 のように
「 納棺師 」 という未知なる種目にチャレンジしていく
「パフォーマンス系映画」 の一種
であると思えてきたからなのです。
“慣れない フラダンス や ジャズ音楽、そして 男のシンクロ や 社交ダンス、はた また学生相撲 という種目にチャレンジし、一旦は差し障り要件が発生してその上昇機運 が停滞するけれど、最後には会心のパフォーマンスによって映画は最良のカタルシスの 中でエンディングを迎える。”
そんな 「パフォーマンス系映画」 の王道を今作が突っ走ていたことに気づいてしまったのです。
今作は 「納棺」 という種目にチャレンジをし、一旦は職業差別という差しさわり要件が発生するけれど、父親の 「納棺」 という快心のパフォーマンスによって映画はカタルシスの中でエンディングを迎えるはずと、見切ってしまったからなのです。
「パフォーマンス系」 映画に
自制を求めても、無駄!
なことは、経験上わかっていたことですし、
何よりも、 「納棺師」 というパフォーマンスを披露するためには、人に亡くなってもらわなければならないわけですし...。
と、半ば強引に割り切っていたのです。
そんな気分で鑑賞を続けていったら、またまた状勢が変わってきました。
幸いなことに、この 「パフォーマンス映画」 というキーワードを無理矢理に
捻出するまでもなく、
死んだ父親との再会の
必然性に遭遇
することができたのです。
納棺を粛々と進める モックン。
父親の遺体の手のひらを開いたらそこには小さな石が握り締められていたのです。
これをやらせたかったのか!
と、この瞬間に
ボクの映画的興奮は振り切れていったのです。
この石は、父親の納棺を モックン が取り仕切るはずだと予感をさせたシークエンスである
「 石文 (いしぶみ) 」 において、
少年時代の モックン が父親に渡していた
「石」 だったのです。
「 石文 (いしぶみ) 」 とは、
“大昔、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、受け取った者は、その石の感触や大きさから贈り主の心を読み解く。”
というコミュニケーション方法であると紹介されていました。
子供時代にたった一度、モックン は父親とこの 「 石文 (いしぶみ )」 の交換をしており、父親の手に握られていたのが、その時にモックンから父親に渡された 「石文 (いしぶみ)」 だったのです。
死の瞬間に、少年時代の モックン の 「石文」 を父親が握り締めていた事に、
家族を裏切ってしまった
父親の深い後悔と贖罪の念
を感じて、心を動かされていったのです。
しかし、ここでは、そんな万人が感じる思いを強調したいのではなく、こんな思いと共に、全く違う感情がボクの気持ちを直撃していたことを、述べておきたいと思いました。
父親が持っていたのは少年時代の モックン の 「石文」 であることには間違いないのですが、 ボクにはその 「石文」 が、わけあり失踪をし、独り死んでいった 「父親」 の、
死の直前の彼自身の 「石文」 へと
「変容」 していった
と思えてしまったのです。
失踪前の父親の 「石」 はとても立派で大きなものでした。
しかし、家族を裏切り、一緒に失踪した女性とも別れ、流れ着いた漁村の片隅で細々と生活していく中で、あんなにも
尊大であった
父親の 「石文」 が削り落とされて、
謙虚さを取り戻し、
少年と同じ純粋さを取り戻した瞬間に
父親は 死んでいった。
と思えてしまったのです。そしてその事実を
「有機的モバイルスーツ」 たる自分の遺体に託して、
息子である モックン に伝わることを願いながら
逝った......。
という思いに
激しくこだわっていったのです。
「 石文 (いしぶみ) 」 を再度説明すると、
”大昔、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、受け取った者は、その石の感触や
大きさから贈り主の心を読み解くコミュニケーション”
とされておりましたが、
「おくりびと」 ならぬ、 「受け人 (うけびと)」 となった モックン は 父親の死の直前の 「石文 (いしぶみ)」 の感触や大きさから、
父親の 「変容」 を悟り、
父親の 「謝罪の気持ち」 を静かに受け取った
と思えたのです。
モックン は父親から送られたその 「石文」 を、しっかりと妻の手に握らせました。
そして次に、それを身重の妻のお腹に静かに重ねていったのです。
「石文 (いしぶみ)」 の 「送り人 (おくりびと)」 となった モックン が、今度はこれから生まれて来る我が子に自分の気持ちを伝えていく............。
こんな象徴的なカットで今作は終わりを告げていきました。
「有機的モバイルスーツ」 に託された 「石文 (いしぶみ) 」 によってもたされた
父親の 「変容」 と
モックンの 「受容」。
この2つの変化によって、モックン の気持ちの中に形成されていた歪んだ 「父親」 という虚像が氷解し、それと同時に、次は自らがその 「父親」 というものへとなっていく ...........。
「個」 の命はこの世から 「旅立って」 いきました。
しかし、新たにその存在を受け継ぐ者の誕生を目の当たりにすることによって、そしてこれから誕生する 「命」 の存在を認識させられたことによって、
「個」 の世界観をはるかに超えた、生命の 「転生」 や 「輪廻」 という大きなうねりを感じ、ただ、その芳醇な揺らぎの中に身を委ねた鑑賞となったのです。
ボクは今作を
「 フラガール 」 や 「 スウィングガール 」 、
そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 、
同じ モックン 作品では 「 シコふんじゃった 」 のように
「 納棺師 」 という未知なる種目にチャレンジしていく
「パフォーマンス系映画」 の一種
のようなものだと早合点していました。
しかし、実際は、
「父親」 という大きなトラウマの前に 「頑なになっていた魂」 を
「納棺師」 となったことで解き放ち、自らが 「父親」 となる決意をする
「連綿と続いていく命」 の物語
であったと結論付けたいと思います。
次回は 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 のレビューに挑戦です。
http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-97.html
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