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フラガールその2

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2008年 7月12日(土)13時52分25秒
  フラガール その2です。


中盤、4人しかいなかったメンバーが急増していきます。
炭鉱の縮小による大量解雇がその原因で、収入が無くなったことで新しい食い扶持
を求めた娘たちが フラガール に応募してきたのでした。
同じパフォーマンス系映画つながりで胸の内で比較してきた 「ウォーターボーイ
ズ」 と今作とは、ここにきて決定的な違いをみせてきたのです。
「ウォーターボーイズ」 においてもメンバーの増員があるのですが、それはTV
のニュースで男のシンクロが扱われたことによるPR効果のたまもので、あくまでも
積極的な参加意欲によって増員されたものでした。
それに対して今作は、父親のリストラによって、娘たちが

    生きる手段として

 フラガール を選ばざるを得なかったところに、両者の差異が際立ってきたの
です。
昨今におけるパフォーマンス系映画 「ウオーターボーイ」 「スウィングガ
ール」、TV番組でありますが 「のだめカンタービレ」 と比べて今作が圧倒
的な深みを持ちえた点が、

    生活をしなくてはならない という側面なのです。


また、リストラの影響で、逆にメンバーの減少も発生することになりました。紀美
子の親友である早苗が父親の転籍でこの町を離れていくことになるのです。その離
別のシーンにおいても序盤に感じた 「内」 ⇔ 「外」 の関係性が反復訴求さ
れていったのです。
早苗を乗せたトラックが走り去って行く場所、それがどこあろう... 「橋」 で
あったのです。
「内」 なる存在であった早苗は

    「橋」 を渡って行くことで 「外」 なる者となり、

この地からも、そして映画世界からも姿を消していくことになるのです。

早苗離脱 のくだりは同じく序盤、紀美子の母親の存在で感じた 産業構造の変化
 についても考察の種を提供してくれました。
早苗の父親はリストラされた腹立ちにまかせて、第三次産業に従事しようとする娘
の晴れ姿に攻撃を加えてしまったのです。
第三次産業の機運を拒絶し、第一次産業に固執していった男が流れ着く先は...
夕張。
その後の夕張炭鉱の閉山、そして自治体の財政破綻を知る者からすると、時代の大
流を無視し、反発し、消え去っていく者の哀しさ、憐れさを感じずにはいられませ
んでした。


さて、いよいよ「常磐ハワイアンセンター」 の開園を目前にして、フラガールた
ちのキャラバンが始まりました。
公民館などで踊りの実地訓練を行うのと同時に、フラガール達に 「常磐ハワイン
アンセンター」 の宣伝をさせてくるあたるは流石、日本初の テーマパーク を
作り上げた経営陣。

    ナイスなプロモーションです。

コンテンツのブラッシュアップとプロジェクトのPRを同時に叶えていくプロデュ
ース能力の高さに、再び感服致しました。
やっぱり フラガール という一側面だけではなく、 「常磐ハワイアンセンタ
ー」 をリリースしていくもっと巨視的なドキュメンタリー映画を観たいものだと
再確認をしたのでした。

と感じた直後、不思議なことに、気が付くと個人の感情の問題にボクは目を向けて
いたのです。
それはキャラバンの楽屋で父親の落盤事故を聞かされる、静ちゃん演じる小百合へ
の演出に見られました。
自分をターゲットとしている告知者の視線から逃げるかのように、ただひたすら手
鏡で自分の顔を凝視し、その事実を避けようとする彼女の行動に迂闊にも心が動いて
しまったのです。
ちょっと冷静に考えるとこの表現は少女マンガに出てきそうなありがちなものなん
ですけどね.....。
そう言えば、先の早苗離脱のくだりにおいても 「内」 ⇔ 「外」 の関係性に
意識が向かいながらも、ふと気づくと、ただ単純に早苗に同情している自分がいた
のです。

「プロジェクトX」 的なビジネスの現場や映画製作者の構造的なルールに思いを
転じた途端に、ふと気づくと、正反対とも言える情緒的なエンタメ映画の真っ只中
にいる。

    案外、これは興味深い映画

                  だなと思い始めたのです。


さあ、話を映画製作者のルールについて述べることにしましょう。
父親の危篤に際しても公演を続行し、 「バカみたいに笑顔を振りまく」  第三
次産業 の厳しさにもまれてプロに近づいていった彼女たちと、
 第一次産業 の土着的で保守的な人間関係を強要してくる 生粋の 「内」 な
る者と、娘たちを違う領域に連れ去ってしまうかもしれない、ドライな 「外」
なるダンス教師。
この三者の間に、落盤事故をきっかけとして噴出する人生観や価値観の違いによっ
て、大きな軋轢が創出されはずだとボクは確信をしているわけですが、その根拠は

「フラガール という目的に対して順風満帆に物語を進行させておきながら、第三
者的な要因によって大きな挫折 ( おそらく、落盤事故を発端とする 「内」
と 「外」 の大きな軋轢がこれにあたるはず ) をしかけていくことになる。
その結果、物語進行上の 手痛い停滞 が提示されるのだが、当然のことながら、
その障壁も乗り越えていくことになる。
この 手痛い停滞 の克服と、物語上のクライマックス ( おそらく、「常磐ハ
ワイアンセンター」 での初パフォーマンス大成功! となるはずです ) を続
けざまに投入してくることによって、結果的には、より大きな幸福感に包まれた大
団円を迎えることになるのだ。」

という類型的な 「挫折の後の歓喜」 を今作が形成するものと頑なに信じている
からなのです。

で、元はと言うと

   “激しい動きの後に、膝を折り仰向けに倒れるように沈み込む。
    長い静寂の後、引き上げられるように膝を支点にして上半身をおこす”

この振り付けの表現方法の稚拙さから、これが単発で終わるはずもなく、映画製作
者のエゴを丸出ししながらも再び反復訴求されるはずと直感し、


    【 ダンスの振り付けが雄弁に語る、物語進行上における法則性 】

               なんて言葉を持ち出して監視をしていたのです。
 

フラガール

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2008年 7月12日(土)13時16分9秒
  フラガール  その2です



終盤。

手痛い停滞 は予測通りやって来ました。

「外」 なる、そして 第三次産業 の化身たるダンス教師は、そのドライなプロ意識
ゆえに 第一次産業 の保守的なムラ社会から疎外されて フラガール から離脱をし
ていくことになります。
しかし、この停滞はそう長くは続かないことに程なく気づきました。
何故なら、今作は

    「挫折の後の歓喜」 型ストーリーをたどる

はずであるからであり、そして何よりも、 第一次産業 の代弁者たる紀美子の母親が、
紀美子のダンスシーンを目撃してしまったからなのです。その時、目撃する振り付け
が勿論、あの

   “激しい動きの後に、膝を折り仰向けに倒れるように沈み込む。
    長い静寂 ( わかりやすく言い換えると 「停滞」 )
    の後に引き上げられるように膝を支点にして上半身をおこす”

振り付けだったからなのです。それはまさしく序盤にかけて ダンス教師と 「オレ」
 達のちょっとした軋轢を予定調和的に解決してくれた振り付けだったのです。

仰向けに倒れ込んだ肉体の 「停滞」 を経た後、再びの命を吹き込まれたように動き
を再開していくこの振り付けには

     「再始動」 や 「復活」

を感じ取ることができ、この踊りを媒介としてしまったからには、
そして、今作においてボクが感じた

     「映画のルール」 を妄信

していけば、この母娘関係に再生がなされるのは時間の問題だと確信したのです。そし
て、ダンス教師離脱という 手痛い停滞 をも同時に解決してくれるはずと、確信をし
たのです。


この独善的な確信はストーブ騒動時の、母親のセリフにその確証を見つけることができ
ました。

「今まで仕事っつうのは、暗い穴ん中で歯食いしばって、死ぬか生きるかでやるもんだ
 と思ってた。 でも、あんな風に踊って、人様に喜んでもらう仕事があってもいいんで
 ねえか?」

と、新しい生き方である 第三次産業 を認める発言がなされたのです。そして、そん
な彼女を出発点としてコミュニティ全体に急速にこの思いは波及していくことになります。
寒い地方での家族団欒の中心にいたストーブが、所有者の善意のもと 「橋」 を渡っ
て 「外」 なる 「常磐ハワイアンセンター」 に移動していくシーンにその思いは
象徴的に表されていたのです。

「内」 なる土着的な結びつきを拠り所とする 第1次産業的 生活と、「外」 なる
 第3次産業的 新しい生き方が 「橋」 を媒介として繋がったのです。
今までは、両者を区分けする関所であった 「橋」 が、2つの世界を繋ぐホットライ
ンと化していったのです。

こうなると物語はどうしょうもなく 手痛い停滞 の解決に向かい、大いなる大団円に
向かって疾走していくことになります。

この町を出て行こうとするダンス教師を引き留める為に 「オレ」 達は駅に終結しま
す。彼女たちがダンス教師に対して行った引き留め工作とは、

   父親世代のように腕力によるものであるはずもなく、
   ましてや言葉に頼ることもせず、

   ただ、ダンスという行為によってのみ、訴えかけたものだったのです。

ダンスが内包している 「思い」 に託して、ダンス教師に自分たちの 「願い」 をぶ
つけていったのです。



手痛い停滞 はこのように解消されていきました。


結局、今作は類型的なストーリーパターンを脱することはありませんでした。しかし、
興味深いことに、映画の構造に注意を向けた途端にボクは再びの情感の世界に引きずり
込まれていったのです。

それは当然のごとく、 手痛い停滞 を払拭していった、ダンス教師引き留めのシーク
エンスに集約されていきました。
ダンスの力によってダンス教師という人の心を振るわせていった彼女達は、初公演を踏
む前の、誰一人として観客がいないこの夜のプラットフォームにおいて、真の ハワイ
アン・ダンサー へと変身していったのです。
それはまさしく、第1次産業 の片田舎にいた 「オレ」 達が、第3次産業 の中で
も高度に専門化した 「エンタテイナー」 に昇華した瞬間だったのです。
それは事業全体という問題とは程遠いパーソナルな瞬間ではありましたが、ボクは敬虔
な気持ちで、そして一種の畏怖の念を持ちながら彼女達の成長を微笑んで見守っており
ました。


後はわざわざ言及するまでもありませんが、手痛い停滞 という障壁を乗り切った勢い
のまま、彼女らの初パフォーマンスは歓喜の中で大成功を収めていきました。

そして、当然のことながら紀美子母娘の和解もこの幸福な大団円のその中で成就するこ
とができたのです。




昭和30年〜40年代の回顧的な作品として比較される 「ALWAYS 三丁目の夕日」
が昭和30年代の高度経済成長の機運を、東京という特別な一地方の部分でしか語れな
かったのに対して、
今作はその7年後の昭和40年。 高度経済成長が引き連れた 産業構造の変革 とい
う大問題を、全国民の1/10しか住まない東京という特別な舞台ではなく、圧倒的多
数の国民が生活基盤とする普遍的な一地方から語ってきた点を評価したいと思いました。

序盤に感じた、「常磐ハワイアンセンター」 の経営的側面を残念ながらかいま見るこ
とはできませんでした。しかし、一事業のレベルを遥かに超えた、圧倒的多数の国民が
直面していった国家レベルの問題である 産業構造の変革 について 、 「フラガー
ル」 というたった一つの側面から考察できたことを高く評価します。


しかし、今作は予測通りの紋切り型のストーリーをそのまま突っ走り、意外性のかけら
もなかったことについては、非常に残念でなりませんでした。
とは言っても、映画制作者の術中に自らはまり、ベタな心地よさに身をまかせた久々の
鑑賞となったのは事実でした。

表層はコテコテのエンタメ映画の王道を歩きながらも、その行間にある制作者のコダワ
リやエゴを秘めた 「裏ルール」 を紐解く楽しさをも感じた鑑賞であったのです。

「表層的エンタメ映画」 と 「隠れた裏ルール」。 この同時錯綜していく2つのベ
クトルを楽しめた、 言うなれば

   パラレルな動きを堪能した

                 鑑賞となったのでした。
 

狼脚本ダウンロード・サイト「SHOCK FREE」本日オープン!

 投稿者:  投稿日:2008年 7月 6日(日)12時41分23秒
  いつもお世話になっております。
監督から脚本家に転向した、狼です。

この度、狼の脚本ダウンロードサイト、
題して「SHOCKFREE」がオープンしました!
狼の全作品がPDFで閲覧可能です!
狼最新作「暴れておっ死ね 第三部〜第四部」もアップされております!
是非、ご覧下さい!

今後は脚本を書き、完成したら「SHOCK FREE」にて公開していきます。
年一本くらいのペースで書いていこうと思っています。
皆様、「SHOCK FREE」を末永く、宜しくお願いいたします!

http://www.shockfree.org

 

猟人日記

 投稿者:たまよまん  投稿日:2008年 5月 3日(土)15時56分32秒
  レアな映画の上映となります。
ご興味おもちになりましたら、是非。

日活映画音楽集〜監督シリーズ〜中平康発売記念 緊急企画!!

「猟人日記の夜」@青い部屋http://www.aoiheya.com/
5/6 (祝火)
open : 18:30 close : 23:00
予約:2800円 当日:3000円 *1D order

◆出演◆
戸川昌子、MARGARETTE、シモーヌ深雪、TAMAYO


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処女作『大いなる幻影』で江戸川乱歩賞受賞。
一躍、文壇のスターへと登り詰めた戸川昌子の第2作『猟人日記』は、女の性の欲望を赤裸に描きセンセーションを巻き起こした。
その話題作を映画『狂った果実』の中平康監督が切望し、1964年、ついに映画化。
戸川自身も出演し注目を集めた本作はその原版が行方不明となり、久しく公開されることはなかった。
今回、CD『日活映画音楽集』発売に際し、貴重な複製盤が発見され、日活に特別の許可を得て、今宵一夜限り公開される!!!!

これを見逃せば、二度と観ることは出来ない!?

この特別な上映会を彩るため、東西ドラァグクィーン界の重鎮 シモーヌ深雪とマーガレット、
「青い部屋」5年ぶりの出演となるバーレスクの女王 TAMAYOが緊急出演決定!
そしてもちろんシャンソン歌手・戸川昌子のライヴあり。
さらには作家・戸川昌子に深く切り込む抱腹絶倒な(?)トーク・ライヴもある、
戸川ファンにも映画ファンにもたまらない、夢のような一夜。

乞うご期待!

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開場 18:30
第1部 19:30〜:映画「猟人日記」上映。
第2部 21:45〜:ショウ&トークショウ。
 

ディパーテッド

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2008年 5月 2日(金)21時00分18秒
    「いやぁ、 してやられました.....。」

これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。
全ての期待と全ての矛盾。 そんなものを

       続けざまに鳴り響いた3発の銃声と、最後に響いた1発の銃声で

刹那的に清算してしまったマーティン・スコセッシ監督の豪腕に、完璧にねじ伏せられてしまったのです。
全てはラストのこの 「乾き切ったバイオレンス」 を提示するためのお膳立てに過ぎなかったのか? ラストまで観客の興味を引っ張っておくために、解決するつもりなどなかった ビリーの心の動き や カウンセラー医 という彼女の存在を意味ありげにちらつかせていただけだったのか?

        多分、 そうなのだろう.......。

通常なら、こんな有様に対しては断固として拒否反応を示すところなのですが、今作においては、意外にもボクはこの事態を容認してしまったのです。なぜなら、様々な糸口や疑問を投げ掛けなげかけながらも、


       「でも、そんなの関係ねー!  オパピー!! 」 (もう古いか.....)

とばかりに 「3つの銃声と、最後の1つの銃声」 で、凄まじい 手のひら返し を見せたわけで、その並外れたパワーと予想だにしなかった展開を、結局は楽しんでしまったからなのです。

そもそもは今作を鑑賞する際に、 「インファナル・アフェア」 という映画が既に存在していた事実をしっかりと再認識するべきだったのかもしれません。
なぜなら、この豪腕監督は、今作の骨子が既に周知されていることを前提にして、エンタメ映画史に残る壮大な実験を行ったのだと思えたからなのです。

壮大な実験。 それが、

      「物語を語らない」 という 大いなる野望。



ローリング・ストーンズの名曲 「ギミーシェルター」 に乗った導入部は、アイリッシュ・マフィアのボスである ジャック・ニコルソン の顔を意図的に暗くして、底知れない “凄み” を演出していました。
と、開始 2分までは大いなる期待を持ったのですが、今作は既にこのオープニングからして、少しづつボクのイメージから乖離し始めていったのです。 (結局は 通常のエンタメ映画からも乖離していくことになるのですが.....。)
ジャック・ニコルソン 演じる コステロ はアイリッシュ・マフィアのボスであるはずなのに、“みじかめ料” を じきじきのご集金。そんな姿に、「なんだこいつは “ちょい悪” か」 との思いがもたげてしまい、彼の顔をあえて隠す演出と、“ちょい悪” とのギャップに違和感を持ってしまったのです。
残念ながら今作は、この嫌な予感を最後まで引きづり続け、期待と疑問のハザマに漂いながらも、最後はある程度の納得に漂着するものと思い込んでいた観客をまんまと裏切ることになっていくのです。

序盤、アイリッシュ・マフィアに潜入することになる ディカプリオ 演じる ビリー と、警察に潜入した マット・デイモン 演じる コリン の上司 が登場し、

      ボクの警戒心を大いに刺激

                    をしていきました。

なぜなら、昨今の警察モノで横行している

     「黒幕は捜査当局にいた!  驚くなかれ幹部だった!!」

という終結方法に、ウンザリしていたからなのです。
老齢なボスと、口汚いサブリーダー。 どちらかが黒幕的な役割を演じやしないかと、身構えてしまったわけなのです。


しかし、今作のオリジナルである 「インファナル・アフェア」 にはこのネタは使われていないようなので、まずは一安心。予め安っぽいオチが使われていない事がわかったところに、今作のリメイク作であるメリットがあるのかもしれません

今作を鑑賞していくうちに、マフィアに潜入していく ビリー に興味を持ち始めたのも事実ではありました。ビリー を取り巻く環境は組織犯罪の温床で、自らも犯罪者になりかねない状況にありながらも、その負の連鎖を断ち切るために警察官を志したのです。
しかし、その家族背景を警察当局からは逆手に取られて、犯罪組織への潜入を命じられたのでありました。よりによって、それは彼が忌み嫌い、そして選ぶことがなかったもう一つの選択肢、 “犯罪者” に身をやつすことだったのです。
しかも、正体がバレようものなら、命を奪われるという過酷な状況下にいるわけですから、彼の心の葛藤が表現されて当然だろうと期待をしてしまったのです。

しかし、映画が進行していくうちに、

      「学芸会 みたいだぞ。」

                    とボクの理性がアラートを発してきました。

物語上の不整合や制作サイドの無配慮の数々が鼻をつき、懸念を感じてしまったからなのです。

細かなところまで指摘するとキリがないので省略しますが、
アイリッシュ・マフィアと中国側との密輸取引においては、無配慮の末の稚拙さが痛々しいほど露呈されていきました。
監視カメラの死角にターゲットが移動してしまったのなら 「サーモグラフィーでスキャン」 すればいいし、スパイ衛星からのカメラ画像も活用して、逃亡する彼らを補足するだけでいいのに。と

      「24 (トゥエンティー・フォー) 」 という

                         高度なIT化を果たした捜査手法

を知ってしまった視聴者の一人としては、今作の捜査陣営の無策ぶりにほとほと呆れてしまったのです。
オペレーターがヘボなら CTU から クロエ に来てもらえばいいし、戦術チームの カーチス を配備して、ターゲットを一網打尽にすればいいだけじゃん! こんな学芸会みたいなことをしていたら、 ジャック・バウワー にどやされるだけだぞ。と心配しながらも、時間の無駄としか思えないヤリトリにつき合わされてしまったのでした。

しかも、各々の組織に潜入しているスパイ( “ネズミ” と称されている) の捕獲に乗り出すくだりも、真っ先に疑うべきである新入りの コリン と ビリー を治外法権的な扱いとするあたりに、お粗末さが見えてきました。アイリッシュ・マイアに潜入した ビリーの方は やや旗色が悪くなるのですが、警察に至っては、“ネズミ” である コリン 本人を “ネズミ” 探索チームのリーダーに任命してしまうお間抜けさなのです。

      「無配慮!」 「不手際!」  「杜撰!」

という言葉を、今作の登場人物全員と、この世界を創った制作陣に突きつけたい気持ちに駆られました。この調子のままだとアイリッシュ・マフィアのボス、コステロ は

      「ちょいワル」

の域を超えることはないし、一方の州警察は ジャック・バウワー に顎で使われている “所轄” いや、

      “村の駐在さん”

レベルでしかないショボさなのです。しかも、こんな不吉な予感を蹴散らしてくれると望みを繋いだ

       ビリー と コリン による 二人の頭脳戦

は不発に終わってしまうし、女医も カウンセラ−医 という彼女の特権的立場を使って コリン と ビリー の、

       ボーダーレスな精神に対峙

してくれるどころか、女である肉体の機能を果たすのが精一杯で、知的な展開を見せてくれることはありませんでした。

このように今作は、観る者に様々な

      「思惑」 や 「期待」、そして 「疑問」   を仕掛けときながら、

      続けざまに鳴り響いた3発の銃声と、最後に響いた1発の銃声

という刹那的なバイオレンスによって、

      感情の “連続性” や、

ストーリーを理解するための

      理性の “連続性” さえも

一方的に絶っていったのです。暴力的なまでにもたらされた、

      感情と理性の “断絶”

はそれまで誠実に鑑賞してきた我々視聴者に、いたたまれなくも報われない気持ちをもたらし、怒りさえも感じるほどでした。

しかし、予定調和的に整った “連続性” と 美しい形の結末 しか夢見ない鑑賞者を逆手にとった今作は、それまでのハリウッド映画に飼いならされてしまったボクの感性を根本から揺るがしていったのです。
それはまさに、1960年代の大島渚監督作品を初めて鑑賞した時の気持ちを呼び覚ましてくれたのです。

     1960年 「日本の夜と霧」 を始めとして、
     1967年 「日本春歌考」
     1968年 「絞死刑」
     1969年 「新宿泥棒日記」

などの “主義主張” というファクターで創造された実験的精神に溢れた映画群と同じ衝動を与えてくれたのです。

ハリウッド映画の最有力賞に輝いた2007年アカデミー受賞作品 と 大島渚監督の先鋭的な松竹ヌーベルバーグ・ATG作品 がある意味において同列に思えたことが、個人的にはとても興味深く思えたのです。そして、この全く別のカテゴリーに属する2つの映画群を繋ぐ要素とは何か? と考察を続けたところ、それは

      【 「感情」 の排除 】

                  ではないかと思いあたったのです。

映画というものは 「喜」 「怒」 「哀」 「楽」 を構成要素として 「感情」を表現していくものと思い込んでいたところに、前述の大島作品に触れて 「主義主張」 という、従来とは違うベクトルによって映画が推進していたことに驚きを覚えたものです。
で、今作は エンタメ映画の仮面を被り、しかも、ハリウッド最高権威のお墨付きを得ながらも、

      続けざまに鳴り響いた3発の銃声と、最後に響いた1発の銃声

によって、松竹ヌーベルバーグ・ATG作品と同じように

      【 「感情」 の排除 】

を実現していたことに、映画的興奮を得たのです。

しかし 【 「感情」 の排除 】 と一言に括っても、大島作品と今作のそれは、全く異質なものであったのです。
何故なら、大島作品が小津安二郎監督や木下恵介監督による、情感や機微を描いた “松竹大船調” に反発する形で "主義主張” による 【 「感情」 の排除 】 を成していったのに対して、
今作は 「思惑」 や 「期待」、そして 「疑問」 を投げかけときながら、それらの責任を一切放棄し、4発の銃声による強制終了で 【 「感情」 の排除 】 に至ったところにあります

言い換えると、大島作品はストーリー全体がコンセプチュアルに 【  「感情」 の排除 】を仕掛けてきたのに対して、
今作は、 「4発の銃声」 という1点のみで、結果的に 【 「感情」 の排除 】に至ったところにあります。
肝心な相違点は、この成果が大島作品のように1級品の演出によるものなのか? それとも偶発的にもたらされたのか? なのですが、 うーん。

       ...... 偶然でしょうね ........。

ボクが冒頭に書いた 【 「物語」 を語らない野望 】 なんてものは、もともと存在するはずもなく、偶然が重なった末の幻影だったようです。

でも、この全てを断ち切るように終結させられていった今作の中に、

      東洋哲学的な、 「虚無感」 や 「無常感」

という、一種の宗教観を感じていったのも事実ではありました。
実を結ぶことなく、無に帰してしまうことを知りながら、その行為を繰り返さずにはいられないやるせない気持ちと、
永遠なるものと信じていたものが無情にも変容してしまう、そんな森羅万象のうつろいやすさを、感じることができたのです。
それはまさに、「何か変だぞ」 と思いつつも、ハリウッド映画の今作には、必ずや 「感情」 の着陸点が用意されているはずと、期待せずにはいられなかったボクの

       「虚無感」 や、

ハリウッド・エンタメ映画に連綿と引き継がれた そんな 「鉄壁の掟」 さえも、今作においては脆くも変容してしまった

       「無常感」

             とでも言っておきましょうか。

いずれにせよ 「裏切られた!」 ことによって生じた 諦観に似た境地をかいま見れたと思えたのです。
その感慨が意図的にもたらされたものなのか否かは、この期に及んではもうどうでもよいことなのかもしれませんが...。


今作において、様々な 「感情」 の萌芽をことごとく中途半端に潰してきたスコセッシですが、そんな彼が何故かしら、きっちりとカタをつけてきた側面がありました。
それは警察内で “ネズミ” を探索する監査的な役割についた為に孤立しつつある コリン が、同時に 女医 との関係においても、

       性的に疎外されていく

シークエンスにみられたのです。
女医 との性交が成功しないくだりを繰り返し挿入してきたり、ベッド上の会話で 「一生、アイルランドのダメ男だ」 との微妙な空気を表現していたり、上司との会話では逆に、 「延長戦」 という虚栄を張る発言もありました。
コリンの 性 に対するコンプレックスという、およそ今作の本筋とは離れた要素にこだわっていることに興味を持って見ていたところ、アイリッシュ・マフィアのボスである コステロ を射殺したことによって コリン はきっと精神的に開放されたのでしょう、女医の妊娠という成果から 性の回復 がなされていったことに、

       今作の 裏のテーマ

を発見したような気がしました。
自信満々の コリン ではありますが、コステロ を精神の深層では多大なるストレスと捉え、その健在化が、性生活 という側面にあらわれていたのでしょう。そのストレス源を排除したことによってコリンの内面的開放や復活がなされたことを個人的に興味深く思ったのです。そしてことごとく 感情の萌芽 を摘んできたスコセッシが、よりによってこのシークエンスにこだわり、結実させていった謎にこそ、強く興味をひかれていったのです。

       このいびつなアンバランスの 「理由」 とは?

もしかすると 「理由」 なんてものは今作には一切、存在しないのかもしれませんが、そんな無に帰するような考察を楽しんでもいたのでした。



最後に、“最後の銃声” について。
昨今のポリスものにみる、 「悪事の黒幕は捜査当局のトップだった!」 という安直ネタを危惧していたところ、全く違う終着点をぶつけて来てくれたことに対しては、個人的にうれしい 裏切り として大歓迎をしました。
脇役的存在で、しかも映画を途中離脱した捜査当局のトップ (今作ではサブリーダー) が、正義のオトシマエ をつける1発の意義を大いに評価したのです。 それはストーリー的な側面ではなく、ボクの中にあった強固なマンネリ意識を打破してくれたことに対しての1種の

       ポジティブ的 「無常感」

とでも申しますか、そんな感慨を持たせてくれたことが、今作を鑑賞しての一番の収穫となったのです。


この手法が、オリジナリティの涸欠著しいハリウッド映画において、
「黒幕は捜査当局にいた!  驚くなかれ幹部だった!!」  と同じように、模倣的に繰り返えされ、そして、使い捨てられることがないことを切実に祈りながら今作のレビューを終えることにします。
 

近松物語

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2008年 2月17日(日)12時51分17秒
  スミマセン! 改行だとか、確認せずに 投稿ボタンを押してしまいました。
読み辛くなってしまいました。整えて再度お送りしますので、先ほど(12時37分)のものは無視してください。




今作に触れて、近松門左衛門作品を鑑賞してゆく上での新たな2つの側面に気づくことができました。

1つ目は、

      【 「肉欲」 という、即物的で衝動的な側面 】
                                    で、

近松の世界観を今まで認識していた 「悲恋」 という情緒的な面に加えて 「肉体が溺れてしまう快楽」 という切り口で見ていこうと思ったのです。


そしてもう1つは、他の近松作品で感じた、 「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、

       【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

                       についても注目することにしました。


いきなりの、序盤、ボクの心をわし掴んで、激しく揺さぶったカットが、開始17分に展開されていきました。
それはたかだか 10秒ほどのものでしたが、今作をレビューする上での、そして近松作品全般を鑑賞する上でのボクの方針を決定付けるほどの、大きな影響を残していったのです。

そのカットに映し出されていたのは、不義密通の罪で市中引回しの上、処刑されて、磔台にくくり付けられたままの男女の遺体でした。 正直に話すと、衝撃を受けた本当の理由は、

        「なんて官能的な死体なのだろうか」

と、そのカットに触れて、思いがけない言葉がボクの口をついて出たことだったのです。

肉体の機能を果たさない “骸 (むくろ)” にされて、晒 (さら) されている男女の遺体に性的な意味を感じ、しかもその奪われた肉体の機能とは、 「性交」 に違いない。 と早々に信じて疑わない自分自身に驚いてしまったのです。
どうやらボクの気持ちは、不義密通という極刑によって 「性交」 を取り上げられてしまった肉体が、正々堂々と展示されていたことに動揺し、平静さを保っていられなかったようなのです。
それ故、その物体を不吉で、どこかしら滑稽で、そして圧倒的にエロティックな存在として捉えずにはいられなかったのです。

      【 「性」 ゆえに 「生」 を奪われた肉体 】

           そんな凄まじい存在感に完璧にねじ伏せられてしまったのです。

が、しかし、よくよく考えてみると、そこには、とてつもなく大きな矛盾が存在していたことに気付きました。
そもそも 「性」 というものは 「生」 を次代に繋いでいくための 自然の摂理 であるはずなのに、
ここでは 「性」 がなせる 「性交」 のために、根源的な 「生」 自体が 「国家」 によって奪われてしてまう、そんな摩訶不思議なことが実行されていたのです。


       「性交」 という  “手段”  のために、

            究極の  “目的”  である 「種の保存」 を

                          遂行することができなくなる。

そんな、自然界においては考えられないことが、江戸時代の人間界では行われていたのです。

それは 「性交」 を純然たる 「生殖行為」 と単純に割り切ることができない、社会的な「意味」 や 魑魅魍魎的な 「関係」を見い出してしまう、


         人間という、極度に複雑化してしまった動物の

                  「性 (サガ) 」 なのでしょうか........。


しかし、 「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因は、こんな社会学的な考察や生物学的なものではなく、ただ単純に 支配統制 という 政治的な手法 に起因していたのです。
江戸幕府が他者を支配するための 精神的な縛り として採用した、儒教の 「主従関係」 という思想。 これこそが、「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因 であったと思うのです。
幕府と大名の間での 上下関係。 大名と藩士の間での 服従関係。 そして 商家では主人と奉公人の間でと、様々なレベルでの 「主従関係」 を 江戸幕府は死守させてきたのです。

テッペンにいる自らの安寧のために、このヒエラルキーを下々の者まで浸透させる必要があったわけなのです。幕藩体制によるそんな支配の 「ツール」 を隅々まで行き渡らせて、

        【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

を全方向的に構築していったのです。 そして、 性愛 の極私的な世界をも管理するために 「不義密通」 という厳罰を導入し、相互監視の下で 「個」 をがんじがらめ にしていったのです。

あのエロティックな遺体は 「主従関係」 の概念を崩しかねない 「不義密通」 という危険な性の快楽に溺れた肉体だからこそ、支配者層は、 (大げさな言い方をすると 「幕府」 の安泰のために) その肉体を無力化する必要があったのです。

        【 肉体の機能を奪われた骸 (むくろ) 】  や

        【 「性」 によって 「生」 を奪われた肉体 】

という言葉が押し寄せてきた、あのカットから、近松の世界を従来どおりの 「悲恋」 という情緒的な側面だけではなく、新たに

        【 「肉欲」 という、即物的で衝動的な側面 】

                     をも考慮して鑑賞しようと思い、 また、

「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、

       【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

         についても注意しようと思い始めた、濃密な10秒間だったのです。



今作の主人公となる、奉公人の茂平と豪商の妻である おさん は 予想通りに、間の悪いタイミングが重なったことによる誤解が元で、「不義密通」 の汚名を着せられ、放浪の末の死へと追い込まれていきます。
清廉潔白の身でありながら入水自殺を図る最後の瞬間にきて、茂平は おさん に溢れ出る自分の気持ちを抑え切れずに吐露するのです。

       そしたら、あれっ?

何と おさんはケロッと、いとも簡単に入水の意を翻してしまうではありませんか。
半ば強引な軌道修正にあっけにとられながらも、それでもこのシーンが物語上の転換点であると受け入れて、 おさん の行動を考察することにしました。

茂平に愛を告白された瞬間から、おさんは自分の 「生」 を生きていくことを決心したのだと思いました。

    「家」 のために、30歳以上も年上の男の後妻となっていたところに、
    「家」 のしがらみとはまったく違う、 おさん という
    「個」 の必要性を欲っされて、彼女は自分の

         独立した存在
                  を発見したのだと思いました。

 「家」というものに支配されて、そして従属していた おさん としての命は 未練はなかったのでしょうが、
 「個」の 新しい価値を見出した、独立した存在の おさん はその命を終えることができなかったのでしょう。

ここにおいて、序盤にこだわった “晒(さら)された男女の遺体” に象徴される

         【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

                     という関係性が、思い出されてきました。

この場面では 「国」 という単位ではないが、封建社会の市井レベルでの統治単位と言える 「家」 の支配から解放された 「個」 の輝き を見ることができたのです。

 「家」 の呪縛から逃れて 「個」 に目覚めた おさん は茂平の気持ちを受け入れ、恐らく初めての 「性愛」 にも目覚めていきます。

     しかし、

その充実の 「性交」 は幕府の支配概念を、モラルという側面から崩壊しかねない、危険きわまりない 「快楽」 となっていったのです。

     そして

「家」 においても 「不義密通」 を許した罪として、 「お家断絶」 という存亡の危機をもたらす、一発触発の最終兵器と化していったのです。

この濃密で危険な二人の 「性愛」 をめぐって、

       「お家安泰」 を目指す豪商である大経師、
       その大経師の後釜に納まりたい有力者、
       スパイとなる大経師の番頭、
       大経師との関係を維持しておきたい おさん の実家、

夫々の思惑が交錯する中、この大量殺略兵器とも言える茂平と おさん は、最終的には茂平の実家に着弾をしたのです。
しかし、そこにも 「ムラ」 という土着的な人間関係を基盤とする

        連座制

という名の支配装置が作動して、この 「性愛」 という劇薬物の排除にかかるのです。

ここまでくると、二人の単なる 「肉欲」 が封建体制に押えつけられた 「個」 や 「自由」 を獲得するためにレジスタンスする 崇高なる 「純愛」 に思えてくるから、とても不思議な感じがしました。


ラスト、二人は結局捕らえられ、序盤にボクが強い印象を受けた 「市中引き回しの行列」 の再現を自らが演じていくことになります。

この物語が開始された当初は、茂平と おさん ともにこの 不義密通による「行列」 には否定的な立場を取っておりましたが、物語が進んでラストに至っては、180度状況が変わってしまい、茂平と おさん が今度は市中引き廻しの馬上の人となっていったのです。

序盤に見た 市中引き回しの「行列」 が形を変えてこのように終盤に再現されていたことに対して、ボクは

        「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名)

                 を感じて、映画的興奮を得ることができたのです。

それでは 「映画的 デ・ジャヴュ」(ボクが勝手に命名) について説明してみることにしましょう。

この表現技法の特徴点は、オープニングとエンディングに “象徴的なシーン” を意図的に繰り返し配置してくるところにあります。
物語の始まりと終わりとで生じていった相違点や、逆に変わらずにいる共通点を提示することによって、時間の経過による様々な

          移り変わり

を視聴者の心に強く訴えることができる、ボクの好きな技法なのです。

しかも、反復して “象徴的な行為” を行わせることによって、オープニングで目撃をした、視聴者の記憶を刺激し、呼び覚まして、一種の

          「既視感」

のような特別な感情を煽りながら、運命的に、そして必然的に発生していった “時の移り変わり” を効果的に表現することができる技法であると思っています。

ストーリー上の傾向としては、序盤においての主人公はその “象徴的な行為” からは距離を置いているのだが、映画というドラマを経てエンディングに至っては、自らがその “象徴的な行為” を演じる立場に転じていたことになるのです。

この 「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名。....しつこいですね、以下省略。) が効果的に使われた代表作品として 「ゴッドファーザー」 が真っ先に挙げられるかと思います。
序盤、父親のビトー・コレルオーネの陳情を聞くシーンから始まった 「ゴッドファーザー」 は、様々なドラマを経て、ラストに至っては、マフィアの側面から距離を置いていた三男のマイケルが、父親と同じように、配下の者からの陳情を受けるシーンで帰結をしていました。

オープニングで、父親のビトーが家庭とは隔絶された空間で、陳情を受けるシーンを目撃していた視聴者は、エンディングでのマイケルによる行為に触れた瞬間に、オープニングでのそれを想起することになります。 そして、一種の

         「既視感」

という特別な感慨に包まれながら、運命的に、そして必然的に発生する

         世代の移り変わり
                     を認識していったのです。

「ゴッドファーザー」 においての 「映画的 デ・ジャヴュ」 は、マイケルの “成長” や 権力の “継承” を示す表現として有効に活用されていましたが、今作においては 時のうつろい によって醸し出された


         “無常感” や “もののあわれ”

                     という正反対の感情を訴えてきたのです。


が、しかし、その演出意図を理解しているつもりでも、今作の 「映画的 デ・ジャヴュ」 の処理には、

         残念ながら、

ボクは手放しで評価をすることができませんでした。
今作の 「近松物語」 という題名から、 「市中引き廻しの行列」 が 「映画的 デ・ジャヴュ」 として再現されることをたやすく予測できてしまったところに、そもそもの難しさがあったのではないでしょうか。事前に ネタバレ してしまった 「映画的 デ・ジャヴュ」 を結局的にはうまくまとめ上げることが

         できなかった。 のかな?
                         と思ってしまったのです。

このように思ってしまった元凶は、2度目の 「市中引き回しの行列」 において発せられた

         1つのセリフ、ただ1点
                         に集約されています。

 「お家断絶」となった 「大経師の店」 に、茂平と おさん の 「行列」 が通りかかった際に、後片付けをしていた元大経師の使用人が馬上の二人を見て、



      「お家さん (おさん) のあんな明るいお顔をみたことがない。

       茂平さんも晴れ晴れした顔色で、ほんまにこれから死なはるのやろか。」


と蛇足のように発っしたのですが、二人の表情を思い出して、

        「違うじゃん!。 そんな表情してないじゃん!」

                   と、ボクは即時反発を起してしまったのです。

この場面こおいて、世間知らずであった おさん が 茂平を

        気遣える余裕や度量 を示し、

逆に、茂平は おさん に

        全てを委ね切った中性的で退行したかのような表情を示していた。

としか思えてならず、局面において、立場が逆転していった

        男の か弱さ と、
                  女の 強さ

を感じ取り、どうしてもその考えを主張し、固執したいと強く思ったのです。

大事な第2回目の 象徴的な行為 における前述のセリフと、ビジュアルから受け取ったボクの思い。

        この不整合はどうしたことか!?

                         と途方にくれてしまったのです。

名作の誉れ高き今作に対しては、甚だ勇気のいる発言だが、事前にネタバレしてしまった 「映画的 デ・ジャヴュ」 を、溝口監督は結果的にうまく処理し切れなかった。のかな..........?

と、溝口マニアからの罵声に怯えながら、こそっと、しかも独善的に言い残して、今作のレビューを終えることにします。  (ドキドキ)
 

近松物語

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2008年 2月17日(日)12時37分54秒
  久しぶりに投稿をさせていただきます。
ちょっと前から溝口作品のDVDレンタルが開始されたので(遅かったですよね)
ホント久しぶりに溝口作品を鑑賞してみました。未見だったこの作品を観てみました



今作に触れて、近松門左衛門作品を鑑賞してゆく上での新たな2つの側面に気づくことができました。

1つ目は、

      【 「肉欲」 という、即物的で衝動的な側面 】
                                    で、

近松の世界観を今まで認識していた 「悲恋」 という情緒的な面に加えて 「肉体が溺れてしまう快楽」 という切り口で見ていこうと思ったのです。


そしてもう1つは、他の近松作品で感じた、 「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、

       【 「支配体制」 に統制される 「個」 】
                               についても注目することにしました。


いきなりの、序盤、ボクの心をわし掴んで、激しく揺さぶったカットが、開始17分に展開されていきました。
それはたかだか 10秒ほどのものでしたが、今作をレビューする上での、そして近松作品全般を鑑賞する上でのボクの方針を決定付けるほどの、大きな影響を残していったのです。

そのカットに映し出されていたのは、不義密通の罪で市中引回しの上、処刑されて、磔台にくくり付けられたままの男女の遺体でした。 正直に話すと、衝撃を受けた本当の理由は、

        「なんて官能的な死体なのだろうか」

と、そのカットに触れて、思いがけない言葉がボクの口をついて出たことだったのです。

肉体の機能を果たさない “骸 (むくろ)” にされて、晒 (さら) されている男女の遺体に性的な意味を感じ、しかもその奪われた肉体の機能とは、 「性交」 に違いない。 と早々に信じて疑わない自分自身に驚いてしまったのです。
どうやらボクの気持ちは、不義密通という極刑によって 「性交」 を取り上げられてしまった肉体が、正々堂々と展示されていたことに動揺し、平静さを保っていられなかったようなのです。
それ故、その物体を不吉で、どこかしら滑稽で、そして圧倒的にエロティックな存在として捉えずにはいられなかったのです。

      【 「性」 ゆえに 「生」 を奪われた肉体 】

                そんな凄まじい存在感に完璧にねじ伏せられてしまったのです。

が、しかし、よくよく考えてみると、そこには、とてつもなく大きな矛盾が存在していたことに気付きました。
そもそも 「性」 というものは 「生」 を次代に繋いでいくための 自然の摂理 であるはずなのに、
ここでは 「性」 がなせる 「性交」 のために、根源的な 「生」 自体が 「国家」 によって奪われてしてまう、そんな摩訶不思議なことが実行されていたのです。


       「性交」 という  “手段”  のために、

            究極の  “目的”  である 「種の保存」 を

                              遂行することができなくなる。

そんな、自然界においては考えられないことが、江戸時代の人間界では行われていたのです。

それは 「性交」 を純然たる 「生殖行為」 と単純に割り切ることができない、社会的な「意味」 や 魑魅魍魎的な 「関係」を見い出してしまう、


         人間という、極度に複雑化してしまった動物の

                        「性 (サガ) 」 なのでしょうか........。


しかし、 「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因は、こんな社会学的な考察や生物学的なものではなく、ただ単純に 支配統制 という 政治的な手法 に起因していたのです。
江戸幕府が他者を支配するための 精神的な縛り として採用した、儒教の 「主従関係」 という思想。 これこそが、「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因 であったと思うのです。
幕府と大名の間での 上下関係。 大名と藩士の間での 服従関係。 そして 商家では主人と奉公人の間でと、様々なレベルでの 「主従関係」 を 江戸幕府は死守させてきたのです。

テッペンにいる自らの安寧のために、このヒエラルキーを下々の者まで浸透させる必要があったわけなのです。幕藩体制によるそんな支配の 「ツール」 を隅々まで行き渡らせて、

        【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

を全方向的に構築していったのです。 そして、 性愛 の極私的な世界をも管理するために 「不義密通」 という厳罰を導入し、相互監視の下で 「個」 をがんじがらめ にしていったのです。

あのエロティックな遺体は 「主従関係」 の概念を崩しかねない 「不義密通」 という危険な性の快楽に溺れた肉体だからこそ、支配者層は、 (大げさな言い方をすると 「幕府」 の安泰のために) その肉体を無力化する必要があったのです。

        【 肉体の機能を奪われた骸 (むくろ) 】  や

        【 「性」 によって 「生」 を奪われた肉体 】

という言葉が押し寄せてきた、あのカットから、近松の世界を従来どおりの 「悲恋」 という情緒的な側面だけではなく、新たに

        【 「肉欲」 という、即物的で衝動的な側面 】

                          をも考慮して鑑賞しようと思い、 また、

「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、

       【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

               についても注意しようと思い始めた、濃密な10秒間だったのです。



今作の主人公となる、奉公人の茂平と豪商の妻である おさん は 予想通りに、間の悪いタイミングが重なったことによる誤解が元で、「不義密通」 の汚名を着せられ、放浪の末の死へと追い込まれていきます。
清廉潔白の身でありながら入水自殺を図る最後の瞬間にきて、茂平は おさん に溢れ出る自分の気持ちを抑え切れずに吐露するのです。

       そしたら、あれっ?

何と おさんはケロッと、いとも簡単に入水の意を翻してしまうではありませんか。
半ば強引な軌道修正にあっけにとられながらも、それでもこのシーンが物語上の転換点であると受け入れて、 おさん の行動を考察することにしました。

茂平に愛を告白された瞬間から、おさんは自分の 「生」 を生きていくことを決心したのだと思いました。

    「家」 のために、30歳以上も年上の男の後妻となっていたところに、
    「家」 のしがらみとはまったく違う、 おさん という
    「個」 の必要性を欲っされて、彼女は自分の

         独立した存在
                  を発見したのだと思いました。

 「家」というものに支配されて、そして従属していた おさん としての命は 未練はなかったのでしょうが、
 「個」の 新しい価値を見出した、独立した存在の おさん はその命を終えることができなかったのでしょう。

ここにおいて、序盤にこだわった “晒(さら)された男女の遺体” に象徴される

         【 「支配体制」 に統制される 「個」 】

                            という関係性が、思い出されてきました。

この場面では 「国」 という単位ではないが、封建社会の市井レベルでの統治単位と言える 「家」 の支配から解放された 「個」 の輝き を見ることができたのです。

 「家」 の呪縛から逃れて 「個」 に目覚めた おさん は茂平の気持ちを受け入れ、恐らく初めての 「性愛」 にも目覚めていきます。

     しかし、

その充実の 「性交」 は幕府の支配概念を、モラルという側面から崩壊しかねない、危険きわまりない 「快楽」 となっていったのです。

     そして

「家」 においても 「不義密通」 を許した罪として、 「お家断絶」 という存亡の危機をもたらす、一発触発の最終兵器と化していったのです。

この濃密で危険な二人の 「性愛」 をめぐって、

       「お家安泰」 を目指す豪商である大経師、
       その大経師の後釜に納まりたい有力者、
       スパイとなる大経師の番頭、
       大経師との関係を維持しておきたい おさん の実家、

夫々の思惑が交錯する中、この大量殺略兵器とも言える茂平と おさん は、最終的には茂平の実家に着弾をしたのです。
しかし、そこにも 「ムラ」 という土着的な人間関係を基盤とする

        連座制

という名の支配装置が作動して、この 「性愛」 という劇薬物の排除にかかるのです。

ここまでくると、二人の単なる 「肉欲」 が封建体制に押えつけられた 「個」 や 「自由」 を獲得するためにレジスタンスする 崇高なる 「純愛」 に思えてくるから、とても不思議な感じがしました。


ラスト、二人は結局捕らえられ、序盤にボクが強い印象を受けた 「市中引き回しの行列」 の再現を自らが演じていくことになります。

この物語が開始された当初は、茂平と おさん ともにこの 不義密通による「行列」 には否定的な立場を取っておりましたが、物語が進んでラストに至っては、180度状況が変わってしまい、茂平と おさん が今度は市中引き廻しの馬上の人となっていったのです。

序盤に見た 市中引き回しの「行列」 が形を変えてこのように終盤に再現されていたことに対して、ボクは

        「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名)

                        を感じて、映画的興奮を得ることができたのです。

それでは 「映画的 デ・ジャヴュ」(ボクが勝手に命名) について説明してみることにしましょう。

この表現技法の特徴点は、オープニングとエンディングに “象徴的なシーン” を意図的に繰り返し配置してくるところにあります。
物語の始まりと終わりとで生じていった相違点や、逆に変わらずにいる共通点を提示することによって、時間の経過による様々な

          移り変わり

を視聴者の心に強く訴えることができる、ボクの好きな技法なのです。

しかも、反復して “象徴的な行為” を行わせることによって、オープニングで目撃をした、視聴者の記憶を刺激し、呼び覚まして、一種の

          「既視感」

のような特別な感情を煽りながら、運命的に、そして必然的に発生していった “時の移り変わり” を効果的に表現することができる技法であると思っています。

ストーリー上の傾向としては、序盤においての主人公はその “象徴的な行為” からは距離を置いているのだが、映画というドラマを経てエンディングに至っては、自らがその “象徴的な行為” を演じる立場に転じていたことになるのです。

この 「映画的 デ・ジャヴュ」 (ボクが勝手に命名。....しつこいですね、以下省略。) が効果的に使われた代表作品として 「ゴッドファーザー」 が真っ先に挙げられるかと思います。
序盤、父親のビトー・コレルオーネの陳情を聞くシーンから始まった 「ゴッドファーザー」 は、様々なドラマを経て、ラストに至っては、マフィアの側面から距離を置いていた三男のマイケルが、父親と同じように、配下の者からの陳情を受けるシーンで帰結をしていました。

オープニングで、父親のビトーが家庭とは隔絶された空間で、陳情を受けるシーンを目撃していた視聴者は、エンディングでのマイケルによる行為に触れた瞬間に、オープニングでのそれを想起することになります。 そして、一種の

         「既視感」

という特別な感慨に包まれながら、運命的に、そして必然的に発生する

         世代の移り変わり
                     を認識していったのです。

「ゴッドファーザー」 においての 「映画的 デ・ジャヴュ」 は、マイケルの “成長” や 権力の “継承” を示す表現として有効に活用されていましたが、今作においては 時のうつろい によって醸し出された


         “無常感” や “もののあわれ”

                       という正反対の感情を訴えてきたのです。


が、しかし、その演出意図を理解しているつもりでも、今作の 「映画的 デ・ジャヴュ」 の処理には、

         残念ながら、

ボクは手放しで評価をすることができませんでした。
今作の 「近松物語」 という題名から、 「市中引き廻しの行列」 が 「映画的 デ・ジャヴュ」 として再現されることをたやすく予測できてしまったところに、そもそもの難しさがあったのではないでしょうか。事前に ネタバレ してしまった 「映画的 デ・ジャヴュ」 を結局的にはうまくまとめ上げることが

         できなかった。 のかな?
                         と思ってしまったのです。

このように思ってしまった元凶は、2度目の 「市中引き回しの行列」 において発せられた

         1つのセリフ、ただ1点
                         に集約されています。

 「お家断絶」となった 「大経師の店」 に、茂平と おさん の 「行列」 が通りかかった際に、後片付けをしていた元大経師の使用人が馬上の二人を見て、



        「お家さん (おさん) のあんな明るいお顔をみたことがない。

         茂平さんも晴れ晴れした顔色で、ほんまにこれから死なはるのやろか。」


と蛇足のように発っしたのですが、二人の表情を思い出して、

        「違うじゃん!。 そんな表情してないじゃん!」

                    と、ボクは即時反発を起してしまったのです。

この場面こおいて、世間知らずであった おさん が 茂平を

        気遣える余裕や度量 を示し、

逆に、茂平は おさん に

        全てを委ね切った中性的で退行したかのような表情を示していた。

としか思えてならず、局面において、立場が逆転していった

        男の か弱さ と、
                  女の 強さ

を感じ取り、どうしてもその考えを主張し、固執したいと強く思ったのです。

大事な第2回目の 象徴的な行為 における前述のセリフと、ビジュアルから受け取ったボクの思い。

        この不整合はどうしたことか!?

                         と途方にくれてしまったのです。

名作の誉れ高き今作に対しては、甚だ勇気のいる発言だが、事前にネタバレしてしまった 「映画的 デ・ジャヴュ」 を、溝口監督は結果的にうまく処理し切れなかった。のかな..........?

と、溝口マニアからの罵声に怯えながら、こそっと、しかも独善的に言い残して、今作のレビューを終えることにします。  (ドキドキ)
 

アップしました

 投稿者:オイカワ  投稿日:2007年12月28日(金)21時29分12秒
  マークさんの「ホテル・ルワンダ」アップしました。
あと、ショート・レビュー30本分も。
今年もあと少しですなぁ。ずいぶんサボっちゃってすみません。
 

ホテル・ルワンダ

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2007年12月 1日(土)10時42分24秒
  ご掲載を頂きまして。ありがとうございました。
気分を良くして最新レビューの 「ホテル・ルワンダ」 を投稿させていただきます。


2つの相違する存在が、1つの場所に混在することによって生じる、


       「区別」   「差別」   「葛藤」


             という 3つの現象にボクの興味は集約されていきました。



序盤、1つの 「区別」 に関するセリフがボクの客観性を奪い去っていきました。 それが

      A 「フツ族 と ツチ族 はどう違うんだい?」

      B 「定義では ツチ族 の方が長身で上品、
        ベルギ−の入植者が決めた」

      A 「どうやって?」

      B 「鼻の細さや皮膚の色の薄さでね。
         鼻の幅を測ったんだ。
         ツチ族 に統治させたが、
         退却後、権力は フツ族 へ、
         フツ族 は長年の恨みで ツチ族 に復讐した。」


何と、ルワンダの内線における フツ族、ツチ族 のおぞましき対立の根源は、植民地を統治することを目的にした

        人為的な 「区別」

であったことがこのセリフで見えてきたのです。 しかも、“鼻の幅” という脆弱な基準によって

        捏造された外見上の 「区別」

であった。と、今作は訴えてきました。
この対立関係には、歴史的な、文化的な、血縁的な、地縁的な要因は基本的には介在せず、 1920年頃からベルギーが統治し始めたことによって作られた、 単なる

        「支配のツール」

                でしかなかったのです。

これは、被支配者層の中に相反する2つのグループを創出し、お互いに反目させることによって、宗主国への “やいば” を無力化させる。 そんな、西側諸国が常套としていた 「支配手法」 を取り入れたものだったのです。
この揺るぎない統治構造をルワンダの地に根付かせるために、 ベルギ−人は 「フツ」 「ツチ」 という対立要素を捻出したのです。
そして、彼らが 「ツチ」 を優遇し、「フツ」 を冷遇し、言われ無き 「差別」 と拭い難き 「怨恨」 を人為的に作り、大いに利用したことが、上記のセリフから うかがい知ることができたのです。


時が移り変わって、1962年。 独立国になった後も、ルワンダは 「フツ」 「ツチ」の区別をやめようとはしなかったのです。何故なら、独立後の覇権は、 「ツチ」 の手から離れ、多数派の 「フツ」 の元に移って行ったからなのです。
40年間にわたる 「差別」 がもたらした 「怨念」 は、きっと凄まじいものがあったのでしょう。  「フツ」 は恨みを晴らすために、ベルギー人によって押し付けられていた 「区別」 をそのまま踏襲して、今度は 「ツチ」 を 「差別」 し、 「虐待」 をする席に、ドッカと腰をおろしたようなのです。
それは、身分証明書にしっかりと 「フツ」 「ツチ」 の刻印を押し、その 「区別」 を明確にしていたところからも推察することができます。きっと、必要に応じて 「差別」 を加える エビデンスにしていたのでしょう。



序盤、今作の鑑賞テーマたる

     「区別」   「差別」   「葛藤」   の中の、第1番目に見えてきた

    【 ルワンダにおける 「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた 「区別」 】

にこだわりを持ったわけですが、中盤、 またしてもある1つのシ−ンにとらわれていったのです。  それが 「雨の別離」 のシ−ンでした。


 「フツ」 民兵による 「虐殺」 が横行し、危機的状況に陥ったルワンダから  「外国人」 達が避難するシ−ンが展開していきました。
降りしきる雨の中、 「外国人」 達が ミル・コリン・ホテル を脱出すべく 大型バスに乗り込むのですが、そこにも様々な 「区別」 、否 「差別」 が生じていたことを今作はしっかりと訴えてきたのです。
 「虐殺」 から逃れる唯一の方法となる大型バスに乗り込めるのは、よりによって 「虐殺」 対象者であるはずもない 「外国人」 だったのです。
いくら哀れであろうとも 「ルワンダ人」 である孤児達は保護されるはずもなく、 逆にその孤児達を守っていた 「外国人」 神父は保護され、その神父をアシストした修道女達も、白人は救われ、黒人は置き去りにあうのです。

これは 「奴隷制度」 というおぞましき歴史を持つ、「黒」 だ 「白」 だの封建的な 「差別」 が、この期に及んで再現されてしまったことを示していました。

    【 ルワンダにおける 「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた 「区別」 】

                            が行われているその場に、

    【 全世界で横行する 「白」 「黒」 の否定し難い根深き 「差別」 】
までもが露呈されてしまったわけなのです。  何とも、目を覆いたくなるありさまでした。


また、そんな空虚感に輪をかけるようにして、同じ 「黒」 であっても、パスポートというエビデンスを根拠にする、 「ニガー」 なのか 「アフリカン」 なのかの、新たな社会構造が元凶となる 「差別」 をも、今作は提示してきたのです。

イギリス国籍を持つ 「ニガー」 は 「外国人」 として乗車を許され、ルワンダ国籍 「ツチ」の烙印が押された 「アフリカン」 は拒絶される。
人種という先天的な側面では同じであろうとも、国籍という後天的な側面において、新たな 命の 「選別」 がこの地で行われていたのです。

この事態はまさに、人種的には同じであっても 「ツチ」 か 「フツ」 かで 「区別」 をし、極度に エスカレートしていった、ここ、ルワンダの地で行われている 「虐殺」 と、根底では変わらない行為が 国連平和維持軍 の指揮のもと、平然と行われていたのです。


「外国人」 と選定され、 「祝福」 されし者は、「虐殺」 という大洪水から逃れるために 「ノアの箱舟」 たる大型バスに乗り込み、 「ツチ」 は 「虐殺」 の波に飲まれて命を終えていく。  そんな 神話的に信じがたい 「差別」 が、 現代の国際社会でまかり通っていたのです。

こんな、絶望感に覆われたシーンにおいて、より一層深くボクの心をえぐっていったものがあります。  それが降りしきる 「雨」 の存在でした。
人間という小さき存在が、些細な 「差別」 に腐心している間にも 「雨」 は降り続けていたのです。

  「外国人 観光客」 を濡らし、    「外国人 ジャーナリスト」 を濡らし、

  「外国人 兵士」 を濡らし、     「外国人 修道女」 を濡らし、

  「ルワンダ人 修道女」 も濡らし、  「ルワンダ人 孤児」 も濡らし、

  「ルワンダ人 ホテルスタッフ」     をも濡らしていったのです。


そう。 雨は全ての人の上に降っていたのです。 個々の存在に、そして、個々の命に等しく、雨は降り注いでいたのです。

しかし、そんな自然の摂理に反して、生まれながらの特権階級である宗主国の国民は、雨からも、そして迫りくる危険からも守ってくれる 「ノアの箱舟」 に優先的に乗り込んでいったのです。 そして、あろうことか、 「虐殺」 対象者である永遠の被支配者層を 「砂上の楼閣」 に取り残し、その命に見切りをつけていったのです。

序盤に提示した

     【 ルワンダにおける 「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた 「区別」 】

                                         に加え、

     【 全世界で横行する 「白」 「黒」 の否定し難い根深き 「差別」 】

                                         までもが、

 「ツチ」 の二重に救われない構造を強固に作っており、大きな空虚感にさいなまされました。



序盤、中盤と、夫々に一つの事柄に大いにとらわれることになった今作のレヒュ−ですが、終盤においてもまた、一つのシーンに大いにこだわってしまいました。

それが、川沿いに累々と横たわる虐殺死体を目の当たりにした、今作の主人公である 「ポ−ルの慟哭」 でした。
ホテルに着いて血に汚れたYシャツを着替え、ネクタイを締め直す。 しかし、いつも締め慣れているはずのネクタイの長さが何故か、合わないのです。

このシークエンスに、平静を装っても深く動揺しているポ−ルの内面がうまく表されていました。

そしてポ−ル自身も、こんな日常的に反復している行為すら満足にできない自分の異変に気づいたことによって、とうとう生身の自分を抑え消えれずに、理性を突き破る感情のうずに身を委ねてしまうのです。

せっかく着替えたYシャツの前身頃を、ボタンが飛び散るほど強く引き裂いて、魂の叫び声を上げたのです。
ボクはこの局面を目撃して、ポ−ル・ルセサバギナ が

       「ポ−ル」      の仮面を脱ぎ捨てて
       「ルセサバギナ」  の本質を見せたのだと思い、

                           強く心を動かされたのです。

ここでボクが言っているポ−ル・ルセサバギナにおける

       「ポ−ル」     の側面とは、

Yシャツにネクタイを締め、 パリッとしたス−ツ姿で高級ホテルの支配人を務める側面であり、才覚という、後天的な要因で手に入れた地位や役割など、社会的な存在を意図しています。   また、一方の

       「ルセサバギナ」  の側面とは、

「アフリカ」 の地にルセサバギナ家の一員として生まれ、連綿と続く 「生」 を受け継いで次代に伝える、「種の保存」 を究極の目的とした、根源的な存在として捉えたのです。

ポール・ルセサバギナ という彼の名前に混在する2つの側面を、

       「ポール」     の後天的、社会的存在と、
       「ルセサバギナ」 の先天的、根源的存在とを

                            「区別」をしたのです。

大量虐殺体目撃前の彼は、

        「ポール」 という
                 西洋風の 「ファースト・ネーム」

に準拠するように、元宗主国の西側資本に雇われた特権的立場として “客観性” を保っていました。 しかし、大量虐殺を直接的に体験したことによって、

        「ルセサバギナ」 という
                 アフリカ特有の 「ファミリー・ネーム」

の彼は、凄まじいまでの 「命」 に対する冒涜を前にして、「命」 を受け継ぎ、維持し、次代に繋いでいくという、

        「ルセサバギナ」 の 「使命」

を遂行できない恐怖にかられ、ただただ、慟哭するしかなかったのです。

この大量の虐殺死体を目の当たりにして慟哭する ポール・ルセサバギナ のありさまは、ホテル支配人としての

         「ポール」    の 「役割」

など遂行できずに、一個の 「命」 として恐怖におののく 「ルセサバギナ」 のむき出しで無防備な姿であったのです。

         「ポール」     の外観的な側面から

         「ルセサバギナ」 の生々しい側面に

移行するためには、Yシャツやネクタイという 「ポール」 の “よろい” を脱ぎ捨てる必要があったのでしょう。

         あの瞬間の
               「ルセサバギナ」 による  「慟哭」 と
         その直前の
               「ポール」    による  「脱ぎ捨てる」

という2つの行動は、完全無欠にシンクロしたものだったのです。 それは、ポール・ルセサバギナ の実像を捉えた、非常に映画的な瞬間だったのです。 ボクはこのシークエンスに大きな映画的興奮を感じ、個人的に深い満足感を得ることができました。 はぁ〜 めでたし めでたし。


    【 ルワンダにおける 「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた 「区別」 】

                               にショックを受け、

    【 全世界で横行する 「白」 「黒」 の否定し難く根深い 「差別」 】

                              に途方に暮れた後に、

そんな社会的な問題とは別次元の、 ポール・ルセサバギナ という一個人に内在する、

    【 「西洋」 と 「アフリカ」 、  そして
                「先天的使命」 と 「後天的役割」
                                のせめぎ合い 】

              に、強く心を動かされたのです。


ルワンダで、全世界で、そして一人のアフリカ人の中で、
               2つの相違する要素が併存する ことによって生じる


            「葛藤」      「区別」      「差別」


というものを深く考えさせられた、今作の鑑賞だったのです。
 

ALWAYS 三丁目の夕日

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2007年10月23日(火)00時06分43秒
  今回は邦画です。




今作の鑑賞ポイントを


    【 「テレビ」 の家庭進出 】 と


    【 「東京タワー」 の完成 】という


昭和30年代を象徴する現象としました。


この2つの動きは日本社会が発展し、豊かになっていくことへのシンボルではあるのですが、ボクはこの2つの現象が集約する、1つの社会学的な結果にこだわることにしました。この説明は後で行うことにします。

今作は、しょっぱなに昭和30年代の街を模型飛行機が飛翔していくCGを提示してきたのですが、この映像からして 「貧しかったが、夢のある時代であった」 という演出意図が見え透いてしまい、早速、拒否反応を起こしてしまったのです。

しかし、そんな矢先の 「建設中の東京タワー」 や 「現役バリバリの都電」 の映像には、「おっと、いーじゃん」 と早くも軌道修正の兆し。
しかも、またまた、その直後に提示された 「天井にへばり付いたヤモリが羽虫を捕食する」 映像が、吉岡秀隆演じるところの 「文学」 の、鬱屈している心情を雄弁に語っており、大きな映画的興奮を得ることができました。

おもしろいことに、冒頭の6分で今作におけるボクの印象は、このように目まぐるしく変化していったのです。そして、それにともなって早くも冒頭の6分にして、今作をレビューする基本姿勢が決定されたのです。



「模型飛行機、飛翔! 」
のような表層的な印象しか残せない映像に対しては毅然と

       「NO!」。


「建設中の東京タワー」
のような、時代性を際立たせた冷静なる演出には

       「OK 」。


「ヤモリ捕食」
にみる、独自の視点からの深層部にスポットを当てる映像には、ブートキャンプのビリー隊長のごとく

       「VICTORY!!」。

で対応をしようと思ったのでした。


序盤は、冷静に再現していた「蒸気機関車」や「上野駅」の描写は 「OK」。
「鈴木オート」の大激怒におけるお遊びは 「NO!」。
淳之介少年が描いた空想科学小説へのワープは 「VICTORY !!」
でした。


中盤以降になってやっと、ボクがこだわりを持った2つの現象が展開していきます。

「鈴木オート」 を舞台とした 【 「テレビ」 の家庭進出 】 のお祭り騒ぎはやり過ぎだとしても、昭和30年代の人々にとっての


     “テレビ様” 降臨


という事態は、戦後初めて訪れた 「人類の進化」 ほどの衝撃的な出来事であったのだろうと推測することができます。
なぜならテレビというものは、雲の上の存在であった 「映像情報」 を茶の間に 引き連れて来た最初の利器であったわけで、この偉業によって、現代にみる


     「情報化社会」 を始動させた


巨大な存在となっていくからなのです。

その神々しさは 「2001年宇宙の旅」 の類人猿における 「モノリス」 のように、昭和30年代の人にとっては、21世紀人に進化するための崇めるべき存在であったのです。

そんな “テレビ様” がもたらした驚きや喜びを表現するために、監督が繰り出した幾多の 「NO!」 の洪水にうんざりした後に 「VICTORY !!」 なカットを見つけることができました。

それは、皆でプロレスを鑑賞しているうちに、その小さな画面が突如として映画のような大画面となるカット。

この処理は、「映像情報」 が家庭にやって来たことの強烈なインパクトの直感的なビジュアル表現であることは一目瞭然なのですが、巨大な画面に即応し、一喜一憂する彼らの姿を見ていると、これ以降、テレビの持つ巨大な影響力に踊らされることになる、


      我々、人類の愚かさ


を描いているように思えてなりませんでした。


一方的に提供される 「映像情報」 に釘付けにされ、独占され、操作され、最後には支配されていく未来を予見させる映像だったのです。


しかし、この 「映像情報」 にたやすく接触できるようになったことが、現代に見る 「情報化社会」 を始動させ、急激に拡大させていったのだと思うのですが、この 「情報化社会」 の拡充こそが、


    “効率性” や “合理性”


という概念を様々な局面にもたらし、昭和43年にGNP世界第2位の物質的豊かさを、手に入れる原動力になったのだろうと思い、その効能についても思いを巡らせたのです。


が、しかし、結局は、これらの概念が幅をきかせ過ぎ、偏重されてしまったことによって、周知のとおり


     熾烈な 「競争社会」


をも形成してしまったわけで、「三丁目」 が美徳としていた “人情” とか “思いやり” とか言うものは、他者を蹴り落とし “勝ち組” となる、この 「競争社会」 では時代遅れなものとして、顧みられなくなってしまったのです。

テレビの登場を喜び勇んだ 「三丁目」 が、そのテレビに格納されていた “効率性” “合理性” というウィルスによって滅亡の道を静かに、しかも確実に突き進んでいってしまったことは、何とも、皮肉な話しではないでしょうか。

テレビの弊害についてもう一つ書いてしまうと、江戸時代の寺子屋から始まって、国民学校を経て、戦後民主主義教育の成果によって文盲率が驚異的に低かった日本社会ではありますが、今後、無料で大量提供される娯楽としてのテレビが読書率を下げ、低俗番組による悪影響をとりざたされて、


    「一億総白痴化」の元凶


と名指しされていくのです。

この流れは 「IT社会」 の申し子であるパソコン、そしてインターネットの台頭で、一層の活字離れや識字率の低下へと繋がっていったのです。

話しを本題に戻しますと、プロレスの最中、突如として登場したあの大画面は、テレビが与えた当時の人々への巨大なインパクトをあらわすと同時に、「競争社会」 や 「一億総白恥化」 という将来的に人類が受けることになる


     甚大なる被害


を表現したと感じたのです。

製作者のこのシニカルな目線を評価し 「VICTORY !!」 との声を上げたのでした。


母を訪ねて三千里や、実父による引き離し、初の帰郷など、お涙頂戴的な 「NO !」 の数々を経てのラストシーン。
各々の人間が、各々の場所で、各々の事情を抱えながら、1点を見やる、この終息に 「VICTORY !!」 の称号を与えることにしました。

彼らが見ていた一点。それが、夕日に映える 【 完成した 「東京タワー」 】。

「東京タワー」 は夢多き時代の象徴となる建物であり、この 【 「東京タワー」 の完成 】 という出来事は、日本がさらに、夢の実現に近づいたことを示し、今後、一層の経済成長が彼らを待っていてくれるという希望の持てるカットだったのです。

今作はこのように前向きな気持ちと情緒的な余韻を含みながら終わりを告げていきました。


が、しかし、【 「テレビ」の家庭進出 】 を皮切りに 「競争社会」 や 「一億総白痴化」 という話題を提起してきた者としては、このラストシーンには複雑な気持ちをいだかざるを得なかったのです。

それは、「東京タワー」 の正式名称を思い起こせば理解して頂けるかと思います。


「東京タワー」 の本名とは.....,


      そう。 「日本電波塔」 ......。


俗称 「東京タワー」 と言うこのしろものは、その名の通り、本来はテレビ電波を送信するために建設された建造物だったのです。

そんな 「東京タワー」 の完成が意味するものとは、テレビという媒体が確実に各家庭に侵入することができるように仕組んだ、インフラの構築に他ならなかったのです。
彼は、 「日本電波塔」 の本性をひた隠しにし、「東京タワー」 という猫を被って被支配者層の懐に潜入し、【 「テレビ」 の家庭進出 】 をシステム的にバックアップするという任務を粛々と実行していったのです。
まさに 「Good Job !!」 だったわけです。

テレビは 「日本電波塔」 の任務遂行のお陰で、首都・東京を傘下に収め、これ以降、電機メーカーと結託をしてテレビ受像機のコストダウンや、カラー化などによって、いよいよ、深く家庭に割って入り、その影響力を増大させていくのです。



紋切り型の言い方ではありますが、

    【 「テレビ」 の家庭進出 】 と

    【 「日本電波塔」の完成 】  による


                 「情報化社会」 の目覚め

            ↓

     副作用 「競争社会」 の発生

            ↓

     豊かな人間関係の消滅


という方向性によって 「三丁目」 を内部から崩壊させ、 「1億総白痴化」 の負の力によって、日本社会の軽薄化が促進されていった、そんな図式を認識することができると思うのです。

そのことを踏まえると、今作のラストシーンは、主人公達と我々視聴者に、「東京タワー」 で希望にあふれた未来を予見させるとともに、裏の素顔である 「日本電波塔」 の側面によって主人公達の古き良き社会が壊れていく萌芽をも同時に目撃させていたのです。



まとめますと、今作は昭和30年代の人情と 「時代の夢」 を描いときながら、その 「夢」 が引き連れる副作用が元凶となって、そもそもの美徳であった 「人情」 そのものが崩壊し始める。そんな皮肉な瞬間を描いた映画、であったとボクは受け取りました。

また、今作のレビューの冒頭で提起した 【 「テレビ」の家庭進出 】  と 【 「東京タワー」 の完成 】 が集約していく1つの社会学的な結末とは、今まで述べてきた通り、テレビという媒体が強固になることによって成される、古いコミュニティの解体と、「人情」 というコミュケーション様式の終焉を意味していたのです。


今は平成19年。 “テレビ様” も YOU TUBE  や MIXI を初めとするインターネット攻勢によって、その影響度を急減。 地デジやワンセグという巻き返し策があげられてはいますが、しかしこのシステムの更新によって333mしかない 「日本電波塔」 はその使命を終えて、より高さを有する 「新・日本電波塔」 たる 「新・東京タワー」 の計画が浮上。これによって 「東京タワー」 は誕生50年にして初めて、純粋に
「東京タワー」 の側面として存在していくことができるのです。


今作は昭和30年代を回顧することで、その時代性を認識することができたわけです。もしかして、現代の、この時代を回顧する映画が将来的に製作されるようなことになれば、この今という時が、「古き良き平成10年代」 の最後の時代であった。ということになるのかな? と、思いつつ、今作の鑑賞を終えたのでした。
 

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