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かなり前に見たのですが、一応、書いておきます。
映画は映画館で見るから映画なのである。当たり前のようにそれを思いだしました。
劇場のバックステージ物だから小屋で見るべきなのでしょうか?
それもあるかも知れませんが、しかしそういう意味ではありません。
アルトマンの集大成ともいうべき作品で、これまでの自作品の延長にありながらも新しい映画でした。正直、こんな方法で集大成が作れるのかと愕然となりました。
元々、ビデオ鑑賞向きではないアルトマンの映画でも、例えば『ウェディング』も『ロング・グッドバイ』も、どちらもDVDでも楽しむことができます。或いは『M★A★S★H マッシュ』はどうでしょうか。いまいちビデオのたぐいで見直す気になれないかもしれません。
『今宵、フィッツジェラルド劇場で』は、しかしそういった作品と一線を画しています。勘違いしないで戴きたいのは、私は映画館の優位性とかあまり言いたくない人なんです。DVDで映画が見れるようになって便利になったし、ハイビジョン画質で楽しめたらなんと良いだろうと待ち望んでいます。
けれどフィルムで撮って映画館にかけるというシステムで上映しない限り、100%受け取ることができない作品を見てしまった感動ととまどいを今日はお話したいのです。
例えばルノワールの『フレンチ・カンカン』て、ワケもなく最後感動するんですけど、そんな感動が『今宵、フィッツジェラルド劇場で』にはあります。アルトマンも明らかにそういう意図で撮っている。
しかしその感動がビデオで伝わるのかというとかなり疑問でした。
『ウェディング』のように三一致の法則(時間が飛ばない、場所が移動しない、一つの物語を追っている)で作られた『今宵、フィッツジェラルド劇場で』は舞台に移しかえて上演することも可能でしょう。けれど、物語を移しかえたとしても、この映画にある、あのじんわりとした深い感動は、舞台には決して移植できないでしょう。舞台ではまた別の方法を取らないと。別の方法を取るくらいなら別のネタを探した方が得策かもしれません。
恐らく出演者のちょっとした表情、画面の奥でメインの筋と関係ない人が黙々と自分の仕事をしている"自然な"姿をスクリーンで目撃し、あの時間と場に一体となって初めて『今宵、フィッツジェラルド劇場で』の感動を受け取る準備ができるのでしょう。
もしかしたらハイビジョン映像で大スクリーンで一気に見ればあの感動を味わえるかもしれませんが、それはまたなんと淋しい作業でしょうか。
本当はアメリカの映画館で見るべきであったのかもしれません。できればニューヨークではなく、もっと田舎で。日本人にはあの世界はあまりに遠いから。日本の観客のようにあんな風にクールに接する映画ではない気がしました。(この作品をほとんど意図不明に思った人も多いのではないでしょうか。)
「再現」と「映画に於けるリアル」という問題で色々考察しても良いのかもしれませんが、なんだかとてもバカバカしい気がしています。それよりも『マディソン群の橋』でもそう思いましたが、より以上にメリル・ストリープは素晴らしい女優なんだと改めて思いました。長生きはするものです。死ぬまでにメリルを愛することがあるとは思いませんでした。
映画ではフィクションが画面の隅々にまで行き渡った時、真実になります。ここまで真実の強度を持った新作映画を見たのは何年ぶりでしょうか。かつて名画座で浴びるように見ましたが、リアルタイムに見た新作の作品としてはここまでの真実の強度を持った作品は初めてかもしれません。
『今宵、フィッツジェラルド劇場で』は、真実の強度に総てを賭けて演出されています。それはDVDでは受け取れない。映画館で見たとしても、そこを見逃してしまったらこの作品はどこをどう見て良いのかまるで見当がつかない作品になるでしょう。映画が映画として自然にそこにただある。
『1900年』とはまた別の意味で、映画館で見るべき作品です。
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