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『ロッキー・ザ・ファイナル』

 投稿者:kusukusu  投稿日:2007年 4月28日(土)01時28分35秒
  傑作!
自分がロッキーを絶賛する日がこようとは思ってもいなかった・・。
 

一行映画情報

 投稿者:つじ  投稿日:2007年 4月10日(火)07時09分13秒
  旧HPがリニューアルされて、なんかすごい充実してますねー。
この前気づいたんですけど、URL判らなくなってしまいました。
良かったら教えて下さい。
 

URL無関係でした

 投稿者:つじ  投稿日:2007年 3月30日(金)09時43分53秒
  ここにも登場する友人のHPのURLが↓にはくっついてました。(なぜだろう……(^ ^;))
URLは無関係ですので、、、。
 

今宵、フィッツジェラルド劇場で

 投稿者:つじ  投稿日:2007年 3月30日(金)09時41分38秒
  かなり前に見たのですが、一応、書いておきます。

映画は映画館で見るから映画なのである。当たり前のようにそれを思いだしました。
劇場のバックステージ物だから小屋で見るべきなのでしょうか?
それもあるかも知れませんが、しかしそういう意味ではありません。

アルトマンの集大成ともいうべき作品で、これまでの自作品の延長にありながらも新しい映画でした。正直、こんな方法で集大成が作れるのかと愕然となりました。

元々、ビデオ鑑賞向きではないアルトマンの映画でも、例えば『ウェディング』も『ロング・グッドバイ』も、どちらもDVDでも楽しむことができます。或いは『M★A★S★H マッシュ』はどうでしょうか。いまいちビデオのたぐいで見直す気になれないかもしれません。

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』は、しかしそういった作品と一線を画しています。勘違いしないで戴きたいのは、私は映画館の優位性とかあまり言いたくない人なんです。DVDで映画が見れるようになって便利になったし、ハイビジョン画質で楽しめたらなんと良いだろうと待ち望んでいます。

けれどフィルムで撮って映画館にかけるというシステムで上映しない限り、100%受け取ることができない作品を見てしまった感動ととまどいを今日はお話したいのです。

例えばルノワールの『フレンチ・カンカン』て、ワケもなく最後感動するんですけど、そんな感動が『今宵、フィッツジェラルド劇場で』にはあります。アルトマンも明らかにそういう意図で撮っている。

しかしその感動がビデオで伝わるのかというとかなり疑問でした。

『ウェディング』のように三一致の法則(時間が飛ばない、場所が移動しない、一つの物語を追っている)で作られた『今宵、フィッツジェラルド劇場で』は舞台に移しかえて上演することも可能でしょう。けれど、物語を移しかえたとしても、この映画にある、あのじんわりとした深い感動は、舞台には決して移植できないでしょう。舞台ではまた別の方法を取らないと。別の方法を取るくらいなら別のネタを探した方が得策かもしれません。

恐らく出演者のちょっとした表情、画面の奥でメインの筋と関係ない人が黙々と自分の仕事をしている"自然な"姿をスクリーンで目撃し、あの時間と場に一体となって初めて『今宵、フィッツジェラルド劇場で』の感動を受け取る準備ができるのでしょう。

もしかしたらハイビジョン映像で大スクリーンで一気に見ればあの感動を味わえるかもしれませんが、それはまたなんと淋しい作業でしょうか。

本当はアメリカの映画館で見るべきであったのかもしれません。できればニューヨークではなく、もっと田舎で。日本人にはあの世界はあまりに遠いから。日本の観客のようにあんな風にクールに接する映画ではない気がしました。(この作品をほとんど意図不明に思った人も多いのではないでしょうか。)

「再現」と「映画に於けるリアル」という問題で色々考察しても良いのかもしれませんが、なんだかとてもバカバカしい気がしています。それよりも『マディソン群の橋』でもそう思いましたが、より以上にメリル・ストリープは素晴らしい女優なんだと改めて思いました。長生きはするものです。死ぬまでにメリルを愛することがあるとは思いませんでした。

映画ではフィクションが画面の隅々にまで行き渡った時、真実になります。ここまで真実の強度を持った新作映画を見たのは何年ぶりでしょうか。かつて名画座で浴びるように見ましたが、リアルタイムに見た新作の作品としてはここまでの真実の強度を持った作品は初めてかもしれません。

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』は、真実の強度に総てを賭けて演出されています。それはDVDでは受け取れない。映画館で見たとしても、そこを見逃してしまったらこの作品はどこをどう見て良いのかまるで見当がつかない作品になるでしょう。映画が映画として自然にそこにただある。

『1900年』とはまた別の意味で、映画館で見るべき作品です。

http://blue.ap.teacup.com/documentary/

 

駅馬車

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2007年 3月25日(日)12時33分17秒
  前作、「誰も知らない」では 及川さんの同意を頂き、うれしく思いました。
でも、今回は暴走気味ですので、同意は難しいでしょうね。


「ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。
それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、そして迫り来る 「殺戮」 という


        「単なる “記号”」


として割り切って観ようと念じたのです。
それは、まるでSF映画における “エイリアン” や 戦争映画での “ドイツ兵” のように 「人格」 や 「歴史背景」 のない、ただの 差し障り要因という “記号” として割り切って観たのです。
(あれ? ドイツ兵にも 「人格」 や 「歴史背景」 というものがありましたっけね)

今作で感心したのは  “インディアン” という “ジョーズ” や “ベロキラプトル” のような 「恐怖の存在」 を決して安売りすることなく、しかし、映画の隅々までその存在感を反映させながら、訴求タイミングにイッキに総動員してくる、そんなバランス感覚に溢れた演出でした。
メリハリを充分に利かせたこの映画のジョン・フォードという監督は、スピルバーグやリドリー・スコット、はたまた、ホラー映画をさぞかし研究したことでしょうね(笑)

また、“駅馬車” による疾走感を敢えて自重し、停車場である “駅” という落ち着いた環境でじっくりと登場人物のキャラクターを語り、物語を進行させ、夫々の人生を浮き彫りにさせていく手法を大いに支持したいと思います。
丁寧にドラマを紡ぎ上げたからこそ、然るべき時間帯に一気に爆発する疾走感にリアリティを与え、観る者の感情を揺さぶって、大きな映画的興奮を創出していたのです。
このバランス感覚に富んだ演出を観ただけで、この映画の監督はさぞかし..... (もうやめておきますね)。

昨今のアクション偏重の薄っぺらな映画を作ってしまった全ての製作者には、教科書のページを捲って、 「1939年のおさらい」 を是非とも行ってもらいたいものだなと思いました。

1939年公開のこの映画が単なるアクション映画に留まってはいなかったことに驚きを隠せなかったわけですが、いきなりの "出産” という展開に対しては正直言って、戸惑いを感じてしまいました。しかし、出産という出来事によってこの映画が加速度的に興味深くなっていったのは事実ではあり、この新しい生命の誕生が契機となって、それぞれのキャラクターに 「回復」 や 「復活」、はたまた 「再生」 というものが成されていったことに非常に大きな興味を持ったのでした。
しかも、それらの救いの数々が “インディアン” という 「受難」 を克服して成就していたことにおいて、僕は


        “宗教的 な 寓話”


をも連想してしまったのでした。
マロリー大尉夫人の出産を通して 酔いどれ医師ブーンに医者としての、そして人間としての 「回復」 がなされ、
酒場女として蔑視されていたダラスにも、出産に際しての貢献が認められて “人間性” の再評価が行われ、
存在感の薄かった酒商人ピーコックも家庭人としての立場から、赤ちゃんや母親を気遣う強い側面を発揮していくことになるのです。
しかし、この流れに乗り切れない異端者2人がいることも事実であり、自分はヒーローであるところのジョン・ウエイン演じるリンゴ・キッドより、この2人の存在にこそ強く興味を引かれ、


        妄想 を 増大


させてしまったのです。それが賭博師ハットフィールドと銀行頭取のゲートウッドという存在。
駅馬車に乗り込んでいる人々の中で、唯一、命を落とすハットフィールドは、この映画で赤ちゃんを産むことになるマロリー大尉夫人の護衛的立場を買ってでるのです。どうやら彼は彼女の父親が指揮した軍に所属していたらしく、志が高い騎兵隊の士であったが、何ゆえか転落してギャンブラーという俗悪なものになってしまったようなのです。
そんな人生を送ってしまった故の贖罪の気持ちからなのだろうか、ハットフィールドはまるで聖なるものとしてマロリー大尉夫人に献身的に接していくのです。そんな究極的な行動が “インディアン” による、“頭の生皮はがし” という蹂躙地獄からマロリー大尉夫人を守ることを目的とした、「彼女に向けられた銃口」 という “気遣い” にあらわれていたのでした。
しかしハットフィールドは、彼女と赤ちゃんの安全が確保された瞬間にインディアンの一撃によって死を迎えてしまったのです。そんな彼の存在意義や、彼の過去、この映画における彼の言動、そして死のタイミング、はたまた前述の他のキャラクターによる “宗教的寓話性” などについて考えを巡らせていたら、それこそ、


        究極的 な 「再生」


が、彼の人生において成就されたのではないかと思えてきてしまったのです。


ここにおいて、この考えを出発点として自分の妄想がまた一人歩きを始めてしまいました。


元々は騎兵隊という社会貢献度の高い立場にありながら、一転して、社会から忌み嫌われる賭博師へと転落したハットフィールドは前述のように、新たな “生” を産むマロリー大尉夫人に紳士的に尽くしていくのですが、この新たな “生” の誕生がキッカケとなり、そして “インディアン” という 「受難」 を経て訪れた、様々な “宗教的寓話” を信じてしまった身としては、ハットフィールドのこの行動要因は彼女を守ることが目的ではなく、守り通すことで自分に訪れることになる “救い” を究極的に欲したのではないか?

という予定調和的な考えに囚われてしまったのです。
しかもそれは彼の意識下にはない、



     無自覚 で 無意識、


     本能的 にして 形而上学的 な  「予感」



によって突き動かされたものとして受け取められたのです。
“インディアン” という 「受難」 の際にハットフィールドによって行われた 「彼女に向けられた銃口」 が、蹂躙地獄から彼女を守る為の最大の擁護として認められた末に、最上級の “救い” が彼のもとにやって来たと感じたのです。

それが、

   地に堕ちた ハットフィールドという自分の人生を終わらせること





                                                だったのです。




   注意! これ以降、無責任な 妄想の世界 に突入します。


ハットフィールドは彼女を守ることが目的ではなかったのです。ハットフィールドという人生が犯してしまった罪を贖った後の、彼女から生まれてくる “浄化” された自分自身を守りたかったのだ。
という突飛な考えに憑りつかれてしまったのです。
彼女と “新しい命” を守ることによって贖罪をはかり、「後悔」 というものを一切知らない無垢なる生命体として自らを 「再生」 させてきたかったのだ。
という深い妄想の波に飲み込まれていったのです。

この映画を観終わった直後にジョン・フォード監督が狙った物語上の爽快感とともに、このような気持ちに支配されてしまったのです。
「この特別な感情は何なんだろうか?」 と 自問して、自分の感性と理性が折り合ったところが前述の文章だったのです。


      誇大妄想 であることは  百も承知 をしています。


しかし、この映画を鑑賞してそのような気持ちに強く囚われてしまったのは否めない事実であり、そんな自分にとっての “真実” を率直にこのレビューに書き記すべきだ、との衝動に突き動かされたのです。


妄想を告白したついでに、銀行頭取のゲートウッドという存在にも触れておきたいと思います。
西部劇に対する聞きかじった情報をもとに書かせてもらいますが、“白人” という 「正義」 に “インディアン” という 「邪悪」 なる者が襲い掛かるとする、


        西部劇 の 「黄金構造」


がこの映画によって決定付けられたようなのですが、
この 「黄金構造」 に映画的興奮の全てを預け切った凡庸な西部劇と、「駅馬車」 という金字塔とを決定的に分かつ重要な要素が、このゲートウッドという存在であったと思うのです。
彼は銀行の金を横領する悪役なのですが、新たな命が誕生しても、彼には “救い” が訪れるワケも無く、母子の容態よりも、横暴な態度で自分の逃亡のみを優先させとうとするのです。これによって駅馬車の中は “善” なるものだけではなくゲートウッドいう 「邪悪」 なるものをも孕みながら西部を疾走することになっていくのです。そして同じく 「邪悪」 とされている “インディアン” の襲撃を受ける、あの珠玉のアクションシーンへと畳みかけるように展開していくのですが、ついでに告白をしてしまうと、個人的にはこのアクションシーンよりも、ゲートウッドが不協和音として奏でる、この深いドラマ性に興味を覚えてしまったのです。
悪なるものが 「正義」 たる “白人” にも存在していたという内省的な要素を加えることによって、この映画がキッカケとなって蹂躙つくされることになる「“インディアン” たちの名誉」 への、ささやかな謝罪を行っていたのではないか、という思い付きに興奮してしまったのです。


今作は西部劇の古典的名作であるばかりか、今作が元凶となって後世の作品群によって蹂躙される “インディアン” への贖罪を、もはやその誕生時点において、ゲートウッドという存在に託しめ行っていたのだ。 という総括的な妄想の中にどっぷりとつかりました。結果的に2つの大きな妄想を展開できる映画的幸せを享受できたわけですが、2つ目の “人の良心” に基づいた妄想の方は、どうか “事実” であって欲しいな と願いながら 「1939年の初体験」を終えたのでした。





「ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。
それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、そして迫り来る 「殺戮」 という


        「単なる “記号”」


として割り切って観ようと念じたのです。
それは、まるでSF映画における “エイリアン” や 戦争映画での “ドイツ兵” のように 「人格」 や 「歴史背景」 のない、ただの 差し障り要因という “記号” として割り切って観たのです。
(あれ? ドイツ兵にも 「人格」 や 「歴史背景」 というものがありましたっけね)

今作で感心したのは  “インディアン” という “ジョーズ” や “ベロキラプトル” のような 「恐怖の存在」 を決して安売りすることなく、しかし、映画の隅々までその存在感を反映させながら、訴求タイミングにイッキに総動員してくる、そんなバランス感覚に溢れた演出でした。
メリハリを充分に利かせたこの映画のジョン・フォードという監督は、スピルバーグやリドリー・スコット、はたまた、ホラー映画をさぞかし研究したことでしょうね(笑)

また、“駅馬車” による疾走感を敢えて自重し、停車場である “駅” という落ち着いた環境でじっくりと登場人物のキャラクターを語り、物語を進行させ、夫々の人生を浮き彫りにさせていく手法を大いに支持したいと思います。
丁寧にドラマを紡ぎ上げたからこそ、然るべき時間帯に一気に爆発する疾走感にリアリティを与え、観る者の感情を揺さぶって、大きな映画的興奮を創出していたのです。
このバランス感覚に富んだ演出を観ただけで、この映画の監督はさぞかし..... (もうやめておきますね)。

昨今のアクション偏重の薄っぺらな映画を作ってしまった全ての製作者には、教科書のページを捲って、 「1939年のおさらい」 を是非とも行ってもらいたいものだなと思いました。

1939年公開のこの映画が単なるアクション映画に留まってはいなかったことに驚きを隠せなかったわけですが、いきなりの "出産” という展開に対しては正直言って、戸惑いを感じてしまいました。しかし、出産という出来事によってこの映画が加速度的に興味深くなっていったのは事実ではあり、この新しい生命の誕生が契機となって、それぞれのキャラクターに 「回復」 や 「復活」、はたまた 「再生」 というものが成されていったことに非常に大きな興味を持ったのでした。
しかも、それらの救いの数々が “インディアン” という 「受難」 を克服して成就していたことにおいて、僕は


        “宗教的 な 寓話”


をも連想してしまったのでした。
マロリー大尉夫人の出産を通して 酔いどれ医師ブーンに医者としての、そして人間としての 「回復」 がなされ、
酒場女として蔑視されていたダラスにも、出産に際しての貢献が認められて “人間性” の再評価が行われ、
存在感の薄かった酒商人ピーコックも家庭人としての立場から、赤ちゃんや母親を気遣う強い側面を発揮していくことになるのです。
しかし、この流れに乗り切れない異端者2人がいることも事実であり、自分はヒーローであるところのジョン・ウエイン演じるリンゴ・キッドより、この2人の存在にこそ強く興味を引かれ、


        妄想 を 増大


させてしまったのです。それが賭博師ハットフィールドと銀行頭取のゲートウッドという存在。
駅馬車に乗り込んでいる人々の中で、唯一、命を落とすハットフィールドは、この映画で赤ちゃんを産むことになるマロリー大尉夫人の護衛的立場を買ってでるのです。どうやら彼は彼女の父親が指揮した軍に所属していたらしく、志が高い騎兵隊の士であったが、何ゆえか転落してギャンブラーという俗悪なものになってしまったようなのです。
そんな人生を送ってしまった故の贖罪の気持ちからなのだろうか、ハットフィールドはまるで聖なるものとしてマロリー大尉夫人に献身的に接していくのです。そんな究極的な行動が “インディアン” による、“頭の生皮はがし” という蹂躙地獄からマロリー大尉夫人を守ることを目的とした、「彼女に向けられた銃口」 という “気遣い” にあらわれていたのでした。
しかしハットフィールドは、彼女と赤ちゃんの安全が確保された瞬間にインディアンの一撃によって死を迎えてしまったのです。そんな彼の存在意義や、彼の過去、この映画における彼の言動、そして死のタイミング、はたまた前述の他のキャラクターによる “宗教的寓話性” などについて考えを巡らせていたら、それこそ、


        究極的 な 「再生」


が、彼の人生において成就されたのではないかと思えてきてしまったのです。


ここにおいて、この考えを出発点として自分の妄想がまた一人歩きを始めてしまいました。


元々は騎兵隊という社会貢献度の高い立場にありながら、一転して、社会から忌み嫌われる賭博師へと転落したハットフィールドは前述のように、新たな “生” を産むマロリー大尉夫人に紳士的に尽くしていくのですが、この新たな “生” の誕生がキッカケとなり、そして “インディアン” という 「受難」 を経て訪れた、様々な “宗教的寓話” を信じてしまった身としては、ハットフィールドのこの行動要因は彼女を守ることが目的ではなく、守り通すことで自分に訪れることになる “救い” を究極的に欲したのではないか?

という予定調和的な考えに囚われてしまったのです。
しかもそれは彼の意識下にはない、



     無自覚 で 無意識、


     本能的 にして 形而上学的 な  「予感」



によって突き動かされたものとして受け取められたのです。
“インディアン” という 「受難」 の際にハットフィールドによって行われた 「彼女に向けられた銃口」 が、蹂躙地獄から彼女を守る為の最大の擁護として認められた末に、最上級の “救い” が彼のもとにやって来たと感じたのです。

それが、

   地に堕ちた ハットフィールドという自分の人生を終わらせること





                                                だったのです。




   注意! これ以降、無責任な 妄想の世界 に突入します。


ハットフィールドは彼女を守ることが目的ではなかったのです。ハットフィールドという人生が犯してしまった罪を贖った後の、彼女から生まれてくる “浄化” された自分自身を守りたかったのだ。
という突飛な考えに憑りつかれてしまったのです。
彼女と “新しい命” を守ることによって贖罪をはかり、「後悔」 というものを一切知らない無垢なる生命体として自らを 「再生」 させてきたかったのだ。
という深い妄想の波に飲み込まれていったのです。

この映画を観終わった直後にジョン・フォード監督が狙った物語上の爽快感とともに、このような気持ちに支配されてしまったのです。
「この特別な感情は何なんだろうか?」 と 自問して、自分の感性と理性が折り合ったところが前述の文章だったのです。


      誇大妄想 であることは  百も承知 をしています。


しかし、この映画を鑑賞してそのような気持ちに強く囚われてしまったのは否めない事実であり、そんな自分にとっての “真実” を率直にこのレビューに書き記すべきだ、との衝動に突き動かされたのです。


妄想を告白したついでに、銀行頭取のゲートウッドという存在にも触れておきたいと思います。
西部劇に対する聞きかじった情報をもとに書かせてもらいますが、“白人” という 「正義」 に “インディアン” という 「邪悪」 なる者が襲い掛かるとする、


        西部劇 の 「黄金構造」


がこの映画によって決定付けられたようなのですが、
この 「黄金構造」 に映画的興奮の全てを預け切った凡庸な西部劇と、「駅馬車」 という金字塔とを決定的に分かつ重要な要素が、このゲートウッドという存在であったと思うのです。
彼は銀行の金を横領する悪役なのですが、新たな命が誕生しても、彼には “救い” が訪れるワケも無く、母子の容態よりも、横暴な態度で自分の逃亡のみを優先させとうとするのです。これによって駅馬車の中は “善” なるものだけではなくゲートウッドいう 「邪悪」 なるものをも孕みながら西部を疾走することになっていくのです。そして同じく 「邪悪」 とされている “インディアン” の襲撃を受ける、あの珠玉のアクションシーンへと畳みかけるように展開していくのですが、ついでに告白をしてしまうと、個人的にはこのアクションシーンよりも、ゲートウッドが不協和音として奏でる、この深いドラマ性に興味を覚えてしまったのです。
悪なるものが 「正義」 たる “白人” にも存在していたという内省的な要素を加えることによって、この映画がキッカケとなって蹂躙つくされることになる「“インディアン” たちの名誉」 への、ささやかな謝罪を行っていたのではないか、という思い付きに興奮してしまったのです。


今作は西部劇の古典的名作であるばかりか、今作が元凶となって後世の作品群によって蹂躙される “インディアン” への贖罪を、もはやその誕生時点において、ゲートウッドという存在に託しめ行っていたのだ。 という総括的な妄想の中にどっぷりとつかりました。結果的に2つの大きな妄想を展開できる映画的幸せを享受できたわけですが、2つ目の “人の良心” に基づいた妄想の方は、どうか “事実” であって欲しいな と願いながら 「1939年の初体験」を終えたのでした。


次回は「チャーリーとチョコレート工場」を投稿する予定でおります。
今、「酔いどれ天使」を車内鑑賞中です。
 

フィルムノワールの小傑作『ダウト』

 投稿者:kusukusu  投稿日:2007年 3月17日(土)21時01分37秒
  『ダウト』

この作品はフィルムノワールそのものだ。

と書いたのは、もちろん、「彼女は陽炎のような女、光を織り成す幻影だ」と台詞で表現されているファムファタールのヒロイン、ノラ(ジョリーン・ブレイロック)のキャラクターがあまりにもフィルムノワール的だからだけれども、この台詞のように、ヒロインを始めとする登場人物のキャラクターを光と影、あるいは色、時には匂いで表現しているところがこの映画をなんとも言えずにフィルムノワール的な佇まいの映画にしているのではないだろうか。
たとえば匂いを題材にした『パフューム ある人殺しの物語』よりも「匂い」を台詞にして映画的に表現していると思う。
撮影・照明のウォーリー・フィスター(『メメント』『インソムニア』などのカメラマン)の光と影や様々な色合いをとらえた撮影が見事なのだろうけれども、そうした凝った撮り方がストーリーから浮き上がらずに、多面性を持つ登場人物のキャラクターそのものと結び付いているのがぞくぞくした映画的な肌触りをかもし出しているのだと思う。
「ノラは曜日で人種を使い分ける、謎の女だ」と台詞で言われている通り、画面の多様な色使いは、カメレオンのようなファムファタールのヒロインのキャラクターそのものなのだ。
脚本家あがりのウェイン・ビーチの監督・脚本作品。初監督作品らしい意欲作である。
 

マークさん、つじさん

 投稿者:オイカワ  投稿日:2007年 3月 7日(水)13時59分32秒
  書き込みありがとうございます。

「誰も知らない」。自分にしては珍しくあまりタイムラグ無しに見た映画でした。
マークさんに書いていただいた今までのレビューの中で、もしかしたら最も共感したレビューかもしれません。
この映画のノンフィクション的、ドキュメンタリー的意匠により、事実からのアプローチによる評価が大半を占めているとしたらこれほど不幸なことは無いです。
もう100%マークさんの言うとおりで、これは祈りの映画です。これほどまでに祈りの強さだけで成立する映画が今の日本から発信されたことに驚くべきだと思う。
マークさんが言及した二つのシーン。
夜、次女をおんぶした長男がモノレールを見るシーンのリリシズム。泣きましたよ。泣けて泣けてしょうがなかった。
そして死んだ次女を埋葬する長男と女子高生の泥まみれの姿。例えば「禁じられた遊び」にまで遡るような聖なる儀式との近親性。
作り手側が、事実を題材にした寓話、もしくはファンタジーとして撮ってることは明確です。
僕は最初、大人たちをもっと詳細に描きこんで欲しいと思ったのですが、それをやると事実によりかかった造りになりすぎてしまう。作り手の思いはそこにはなく、やむにやまれぬ祈りを、いかに届けるのかという点にあったことに、後から気付きました。祈りをとどけるための装置としての寓話性やファンタジー性だった、と。

「1900年」の面白さの核を、つじさん、うまいこと一言で言ってくれちゃいましたね。
イメージは豊穣なんだけど細部はすっとばす。
ホントその通り。
で、ベルトルッチの凄さは、細部のすっとばし方の巧みさがそのままイメージの豊穣さに寄与するあたりにあるんではないかと。
すっとばし方も喚起力もやっぱ並みじゃないですよね。
笠原和夫脚本の「県警対組織暴力」を、ベルトルッチが撮ってたら凄かっただろうな。深作ももちろん凄いんだけど。
 

夢十夜 海賊版

 投稿者:つじ  投稿日:2007年 3月 4日(日)22時41分5秒
  夢十夜・海賊版 110分

上映期間が一週間伸びました。

吉祥寺バウスシアター・3/3〜3/23(予定)
20:45〜22:20

 初日は盛況で、第一夜〜第三夜の監督、第三夜主演の
潮見諭さんが舞台挨拶をしていました。

役者さんはやっぱりオーラが違います。監督たちと潮見諭さんが
並ぶと別の生物みたいでした。(^ ^;)
 

1900年

 投稿者:つじ  投稿日:2007年 3月 2日(金)10時51分46秒
  確か20年ほど前にオイカワさんに大絶讃されて見て、結果、生涯意識することになった
『1900年』を先日から少しづつ見直しています。

映画館で一気に見たので、今回は、他のことや生活をしながら、他の映画も
見たりしながらゆっくりと文庫本を読むようにゆっくりとビデオで見直しています。

まあなんというか本当に面白いですね。イメージは豊穣なのに細かいところは
すっ飛ばす。まさに大河ドラマのリズム。

同じ時に生まれた二人の人間の生涯を追うなんてまさにアレですけど
才能ない人がやるとホントに薄っぺらになります。

まだまだ前半ですが、日本映画でこういうノリできちんと牧畜農産や
農耕生活でもいいんですけれど、そういうのを映像のイメージとして
見せえた作品って識らないかも。
 

誰も知らない

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2007年 2月28日(水)21時29分37秒
  こんにちは、今回は「誰も知らない」のレビューを投稿させて頂きます。


   「事実と映画は違っていたのだ。」


このことを念頭にこの映画のレビューを書きたいと思った。

なぜなら、他の方のレビューを俯瞰すると、この映画の題材となった 「巣鴨子供置き去り事件」 に対する感想に終始しているように思えてしまったからです。
もし、この映画ではなく、「巣鴨子供置き去り事件」についてのコメントをするのであれば、映画とこの事件との相違を認識した上で論じるべきだと感じたのです。

その違いとは、

長男14歳 長女7歳 次女3歳 三女が2歳。 男の子は長男だけという孤立した子供の構成で、その中に2歳と3歳の幼児が2人もいたこと。しかも長女はまだたったの7才で、長男の相談相手にもならない存在あった、という事実。
母親40歳は売春や窃盗での逮捕歴もあった人間で、子供を捨てて56歳愛人のマンションで生活をしていたという事実。
そして、子供たちの発見現場には 白骨化した乳児の死体 (自宅で死亡した子供ー生きていれば4歳としている)  もスーツケースに隠されていたという猟奇的な事実。
そして映画では5歳の末娘の死因が椅子から転落した事故死とされていたのに反し、実際は2歳の末娘を 長男14歳と長男の友人2人がなぶり殺しにした上に、そいつらと秩父の雑木林に捨てた、という驚愕の事実。 (長男の友人によって押入れから何回も落とされたことが死因とされている。)

そう。事実は映画なんかよりも重く、辛く、陰惨なものであったのだ。だから事実よりも不当に、軽減されてしまった母親の罪や、美化されてしまった長男の行いについて、この映画で得られる情報だけで語ろうなんてことは僕は思わない。
何故なら、事実は映画なんかよりも、比較にならないほど酷かったのですから。

だから、純粋にこの映画についてのレビューを書きたいと強く思った。事件についてではなく、この事件に触発されて監督が表現したいと思った世界に目を向けようと思ったのです。



   第一条 母親は紳士売り場で働いて、お金を家族の口座に振り込むこと

   第二条 母親は 1ヶ月ぐらいは外泊しても良いが、最終的には家庭に戻ってくるこ
       と

   第三条 住居の契約は 母親と長男の二人住まいとし、他の者は存在していないこと
             にすること

   第四条 存在しないとされた者は、決して外に出ないこと

   第五条 なんびとも 学校へは通わないこと


以上のような憲法があの家庭には存在し、永い間、遵守されていたようなのです。

憲法の制定者にしてカリスマ元首たる母親が失踪するという一方的な憲法違反によって “国家” 否、あの家庭が変容していくさまに大いに興味を覚えました。

“国王の亡命” を期に次男が禁じられていたバルコニーに降り立ち、次女の末娘が、帰ってきやしない母親を迎えに行くために駅まで外出していく。
頑なに守り通してきた 「決して外に出ないこと」 を、いとも簡単に破り始め

                                     (第一次 鎖国の解除)

その後、長男が同年代の友人を作り、あろうことか家に呼び込む

                                     (黒船来航による鎖国政策の崩壊)

未納による電気、水道等のインフラの遮断     (国内資源の涸欠)

それによる公園への侵略行為へと、国土は荒れ、人心も荒廃していくのです。
そして映画には描かれてはいなかったが、最終的には“国連” の介入を許すことになるわけです。

このような “憲法違反” によってこの家庭のありようが変わることは明らかではあるのですが、映画が進行していくうちに上記のような“国王の亡命”はこの映画にとっての進行上の発端でしかなく、あのコミュニティを変えることになるもう一つの要因こそが、この映画が語りたいとしている本当のテーマなのではないかと思えてきたのです。 それが

    “成長” 。


子供たちの “成長” というものがこの歪んだ国家を瓦解させる、

   「緩慢な時限爆弾」

であったと感じました。
それは“母親の失踪”という劇的なことが無くとも、あのコミュニティは変容するべくして変容していったのだと思ったのです。

長男が唯一人、外に出ることを許される “外交権” を持っていたわけですが、それに続く長女、次男も当然のごとくその年齢になれば “外交権” を主張しだすであろうし、長男自身も家族という血縁的なつながりよりも、同世代の男の子同士のつながり合いに魅かれ始め、そして、居場所を無くした年上の女子高生との友情以上、恋愛未満という次なる段階の微妙な人間関係を作りだすことになるのです。
人の正常な成長過程において、家族という出発点から、外に向けての

   人間関係の拡大や属性の変容

は当然のことながら存在するわけですから、あのコミュニティには子供がおり、しかもその子供達は 「成長してしまう」 という宿命を背負っているところから、既に、内部崩壊という結末の萌芽を孕んでいたのです。
そう、子供達の “成長” はあのコミュニティを確実に内から崩壊させる、しかし、決して劇的では無い、「緩慢な時限爆弾」であったのです。
そんな “成長” を体現化していたのが長男役の柳楽優弥による「声変わり」。 撮影期間に“成長” が訪れ、その変化をしっかりとフィルムに収めることによって、全くセリフを介すること無く 「属性変化の予兆」 を表現した監督の手腕を評価致します。


“成長” を通して、コミュニティの変容を促進した彼らですが、「母親によって成長させられることが無くなった彼ら」 が、 わかりやすく言い換えると、「母親に捨てられた彼ら」 が 真っ先にしてしまったことと言えば、

   「雑草のタネを育てる」

という行為でした。欲っしながらも、もはや育てられることがなくなってしまったそんな子供達が育てる、この名も無き雑草は

   「彼らそのもの」

であり、この雑草を育てるという行為が、自分達を育てることを放棄した母親への逆説的で言葉無き抗議であったと感じました。

僕はこの 「タネを撒く」 という行為を、ラストの幼き次女の遺体を 「埋める」 という行為にどうしょうもなく連動させてしまいました。埋葬の地となる羽田は長男の父親が働いていた場所とされており、母がいない今、父親の唯一の記号にすがりたいという気持ちを理解することができる。
しかし、羽田である本当の理由は、恐らくはこの世に生をうけて以来、あの小さな “王国” に幽閉されていたであろう哀れな女の子を、「出発」を意味する羽田に連れて来てあげたかったのだろうと感じました。

(帰ってこない母親を駅に迎に行き、空しく引き返す途中に長男と幼き次女の前に、闇夜を裂いて煌々と走るモノレールが姿を見せます。それは 「とどめさせられている」 自分達とは全く対称的な存在としての輝きに満ちたものだったのです。 「動く」 ということは勿論のこと、その先にはもっと遠くに行ける羽田空港がある...。そんな夢見るようなシークエンスがありました。)

やや呪術的な考え方ではありますが、「旅立ち」 を司るこのサンクチュアリで、長男と女子高生は次なる輪廻の為に、次女の 「生」 を埋めてあげたと僕は感じてしまったのです。

   「雑草のタネを撒く」  と

   「次女の遺体を埋める」 という行為が

                同義語として感じられてしまったのです。

残念なことに幼くして命を落としてしまったが、次なる 「生」 を生きていくことができるように、再び産まれてくることができるようにと 「タネを撒いた」 と感じてしまったのです。


「再生」 を願うこの聖なる儀式をやり遂げた長男と女子高生は、掘り返した土で身なりは汚れ切ってしまっていても、僕にとっては、こんな、やるせない世界に降臨した 「アダムとイブ」 のような、そんな、神々しい存在として目に焼きついたのでした。




 今一度言いたい。


作者は 「巣鴨子供置き去り事件」 を描きたかったのではない。

事件をきっかに感じたことを語りたかったのだ。

人それぞれ思うところはあるのだろうが、少なくとも僕は、
これまで語ってきた 「成長」 や 「再生」 という 強さ と 祈り をこの映画から感じ取ったのでした。
 

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