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通勤鑑賞日記

 投稿者:オイカワ  投稿日:2006年 8月31日(木)19時10分49秒
  「ミリオンダラー・ベイビー」と「血と骨」アップしました。
どちらのレビューも非常に興味深い内容でした。
イーストウッドの、とことん突き詰めて行くとこまで行かないと気がすまない体質みたいなものが俯瞰できた気がしました。
今や、当サイトのアップデートはマークさんにかかっているといって過言ではない!これからもよろしくお願いします。
 

「血と骨」 DVDによる車内鑑賞レビュー

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2006年 8月30日(水)00時32分34秒
  キム・ギドク監督は辻くんが話題にしていた「サマリア」の監督なのですね。
まだ1本も見ていないのに、引退か。

「血と骨」

8月15日(火)  第1回目

「真っ黒な画面に韓国庶民の歌声が聞こえ始めると、さっと早いフェイドインで移民ひしめく船の甲板を俯瞰で捉えた画面が映し出される」
これがこの映画の導入部である。
大正末期の、韓国から日本への移民船の甲板上に青年時代の主人公がいる。やがて、移民たちは目的地の大阪が遠くに姿を現したことに歓声をあげ始める。しかし、希望を胸に日本へとやって来た彼らの前に広がる大阪の風景は、風光明媚な光景なんかではなく、もくもくと黒煙を吐き出す工場群の遠景だったのだ。」

このファーストシーンだけで、この映画は傑作に間違いない。と確信したのでした。時はまさしく「富国強兵」の時代。ヒステリックなほどの工業化重視、効率重視、生産性重視 の国策の元、"よそもの”の彼らは「安い労働力」としかみられない時代で、先行き多難な彼らの未来を的確に予見した秀逸のファーストシーンだったのです。

この素晴らしいファーストシーンから、この映画はどのように展開するのかなと楽しみにしていたのですが、横暴、横柄、不埒なあのオヤジの傍若無人なる振る舞いの数々を見せられる一方なのですよ、これが.......。
しかも移民船に乗っていた青年が、どのようにして、あのオヤジになっていったかの明確な説明がないので、ファーストシーンを手放しで賛同した身としては早くも戸惑いを感じてしまっております。

ファーストシーンに登場するあの青年に「大日本帝国・富国強兵」というファクターが作用してあのオヤジが出来上がるわけですから、大正、昭和にかけて、韓国・朝鮮の移民の人たちを「大日本帝国」はいかに扱ったのかは予測をすることができます。しかし、あくまでもマクロ的?な理解なので個人的レベルでのオヤジの生成要因をこの映画が語ってくれないことに、納得のいかない思いでいるのです。

北野 武 のオヤジぶりは 凄まじく、激昂する異常さは格別、ドロ臭い格闘は最高!でした。しかしこのオヤジの存在が強烈すぎて、題名の「血と骨」を受け継いでしまう子供達の悲劇やジレンマの表し方が中途半端な感じがしてしまった。そこで血族という存在よりも、戦争未亡人で オヤジの二号となる キヨコ の生涯の方に興味を引かれていくのでした。お姫様と呼ばれるほどの美貌を持ちながら、夫が戦死し、生きる為にオヤジの二号さんとなる。そして突然の脳腫瘍発病における寝たきり生活。そこにオヤジの三号さんの出現。三号さんに排泄物の世話まで受ける屈辱に耐えながらも、結局はオヤジに殺される。それも濡れた新聞紙を顔の上に乗せられての窒息死。オヤジに勝るとも劣らない凄まじい人生でした。

明日以降も、このオヤジの傍若無人さを見せつけられるとなると、いくら 北野武の演技が素晴らしいといっても気が重いのは確かです。



8月19日(土)  第2回目


あのオヤジに“生”を与えられた血族の中で、最もその人生を翻弄さてしまった者は、夫の家庭内暴力で死を選ぶ花子ではなく、ヤクザに命を奪われるオダギリ・ジョーでもなく、勿論、温泉街に逃げ込むこの映画の語り部であるはずもなく、
終盤において、3号さんに生ませた幼くも哀れな男の子だったのです。
オヤジが体の自由を失ってからは別居していたこの男の子を、姉と無邪気に遊んでいたところを、力ずくで誘拐。北朝鮮に無理矢理連れていくのです。目的は、奴隷としてオヤジの老後の世話をさせる為....。
男の子の首根っこを掴まえて、まるで子犬を押さえつけ、引きずりまわすかのように、あの男の子を母親から、愛から、日本から、豊かさから、自分の老後の為だけに、引き離し強奪するカットは、そのあまりの身勝手さにヘドが出そうなほどの嫌悪感を覚えた。
老後の世話をさせる為に、国籍を放棄させ、日本で暮らせる権利を剥奪し、彼を守っている全ての加護を断ち切った上で、奴隷として支配し、酷使し、虐待する(これらの行為は直接表現はされていないが、オヤジが男の子をどのように扱うかは十分に推察することができる。)  このような“いのち”を徹底的に愚弄する行為に対し、ただただ、強烈なおぞましさと強固な憎悪だけを感じた。

それから何年たったのだろうか、北朝鮮の寒村で、成長したあの男の子がオヤジの墓を掘る。いつも通りメシを食っていると、死の床でオヤジが初めて大阪を目の当たりにした時の夢を見ながら息を引き取る。しかし何の感慨も無く、メシを続ける男の子。そこには何の感情もなく、日常の“メシを食う”という行為が淡々と行われるだけなのだ。
これがこの映画のラストシーン。
死を目前に横たわるオヤジに向かって、あの男の子は恨みを叫ぶわけでもなく、ただ墓を掘り、メシを食う。そこにあるのは様々な感情が出尽くした後の静寂なのか、無為に過ぎ去ってしまった膨大な時間に対する諦観なのか、この圧倒的な静寂の前に、煮えたぎっていた僕の憎悪が静かにそして完璧に制圧をされてしまった。

秀逸なファースト・シーンと
圧倒的に静寂なラスト・シーン。
その間にある傍若無人な行為で構成された映画だった。
 

引退宣言

 投稿者:kusukusu  投稿日:2006年 8月23日(水)22時29分29秒
  「韓国映画界の異端児」キム・ギドク監督が引退宣言!?
キム・ギドク監督「自分の映画はゴミのようなもの・・・」

 韓国映画界の異端児といわれてきたキム・ギドク(46)監督が、これまでの自身の映画を「ゴミ」と評価し、「韓国映画界から身を引く考え」と宣言した。キム監督は21日午前、聯合ニュースに「キム・ギドクの謝罪文」という題でEメールを送った。この中で、今月17日に出演したMBC100分討論での発言に対し「当てこすりのような行きすぎた表現で、視聴者に不快感を与えた言動について深くお詫びしたい。特に『グエムル−漢江の怪物−』のファンに深く謝罪すると同時に、同映画の制作陣、ポン・ジュノ監督にはこのような発言をしてしまい、映画界の先輩としてまったく面目ない」と謝罪を表明した。

 キム監督は、テレビ討論で「韓国映画と観客のレベルが最頂点に一致した映画が『グエムル−漢江の怪物−』だ」と発言したことに対し、「(インターネットに掲載された)4000件のコメントのうち、大部分が否定的なものだった。自身の劣等感に過敏に反応した人が多かったようだ」とネチズンを直接的に非難した。また「一時的な感情ではなく、過去9年間真剣に悩み、今後は韓国で映画を公開しないと決心した」と宣言した。

 また「以前、俳優のアン・ソンギさんに自分の映画『サマリア』に出て欲しいと出演依頼をしたことがあったが、『いったい父親が娘をどうやって殺せるのか』と断られたことがあった。その時はただ残念に思っただけだったが、今考えてみると自分の映画観と思考に深刻な意識障害的な面があることを悟った」とし、「全員が隠したがる恥部をわざわざ誇張して表現した自分の映画を情けなく思う。美味しかった料理を、その後排泄物として出す際に、それを避けようとする人々の心情をまったく理解しないで映画を作ってきた。自分が本当に恥ずかしい」と語った。

 「今回の事態を通して、自分自身が韓国で生きていくにはあまりに深刻な意識障害を持った人間であることがわかった」とし、「自分こそ韓国社会で奇形的に生まれ劣等感を糧に育ってきた怪物のようなもの」と自虐的に表現した。このほかこれまでの自分の作品がすべてゴミのようなものと話し、試写会を終えた新作映画『時間』についてもこれを公開したくないと語った。

 キム監督は最後に「だいぶ時間はかかったが、ようやく韓国の観客たちの本音を知ることができたので、静かに韓国映画界から身を引くことができる」と引退を宣言した。

 この日午前10時にキム監督からEメールを受け取った聯合ニュースの記者は「監督の今回の発言が火に油を注ぐかもしれないと思い、『グエムル−漢江の怪物−』への謝罪部分だけを記事にした。しかしキム監督がその後、2回もメールを送ってきて『自分の映画に対する自評と映画界から離れるということは必ず明示して欲しい』と訴えた。現在、キム監督の電話は、着信拒否設定にされており、連絡がつかない状態」と話した。

 キム・ギドク監督は、自身が手がけた映画『サマリア』『うつせみ』で、2004年にそれぞれベルリン映画祭とヴェネチア映画祭の監督賞を受賞するなど、ヨーロッパ映画界から絶賛されたが、韓国ではよい評価を得られなかった。キム監督の今回の宣言が、情熱的な監督の自己反省によるものなのか、それとも多様な価値観を受け入れない韓国映画文化に対する反発なのかは、まだはっきりわかっておらず、今回の騒動はしばらく続くだろう。

朝鮮日報 2006/08/22 11:29
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/22/20060822000031.html
 

ミリオンダラー・ベイビー

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2006年 8月20日(日)20時49分25秒
  「ハッスル&フロウ」 皆の者、レイトショーへ急げ。
「サマリア」 覚えておきましよう
「BROTHER」 観てないのですよ。「キッズ・リターン」は好きです。

及川さま コーナーを作って頂きましてありがとうございます。
気分を良くしての投稿です。

ポータブルDVDプレイヤーによる 車内鑑賞レビュー

「ミリオンダラー・ベイビー」

8月2日(水)  第1回目

地味です.....。

主役が二人の爺さんと、アスリート系の30過ぎの女性なのですから.......。でも、年輪を思わせる、二人の爺さんの阿吽の人間関係は絶妙で、ついつい引き込まれます。また、今日、奇しくも、亀田選手の疑惑?の世界タイトルがありましたが、選手とマネージャーの関係とか、それよりも、女性ボクシングの世界をかいま観れて、知らない世界を目撃できて、楽しいです。

         プチ・ロッキー的

な高揚感も期待通り用意されており、まずまずの出だし、地味ながらも、顧客満足は満たしておりました。
しかしビッグタイトル戦まで昇りつめる描写が、時間的に割愛されている気が、どうしてもしてしまい、ロッキーの様相を呈しているこの物語にきっと、成功モノ以外のオプションが用意をされているものと、穿った観方をし始めてしまいました。このまま、女性版ロッキーの道を淡々と後追いするのか、サプライズがかくれているのか、これから始まるビッグタイトルの行方に注目です。でも、評判に聞く映画なので、きっと、うれしいサプライズがあると信じて明日に託すことにします。


        あっ!きっと何かあるな!

映画のタイトル画像をアップしようと、ジャケットを見てみると、これがわかりやすいことに、登場人物の表情が冴えない写真をわざわざ選んでいるのですよ。


楽しくないサプライスがありますね、絶対。



8月9日(水)  第2回目 最終回


「甘かった............。」


サプライズどころの話しではなかった。
驚愕の展開がビッグタイトル戦での、たった一発の反則パンチによってもたらされたのでした。
この一撃によって、この映画はそれまでかぶっていたウサギの仮面を脱ぎ捨て、過酷な自分の本性をあらわにしてきた。
その世界観の前には「プチ・ロッキー的な高揚感」なんてものは、そのシビアさをお膳立てする為の小道具でしかなかったのだ。

一撃がもたらしたもの、それは、脊椎損傷による、全身マヒという運命。
身体を極限までに躍動させるボクシングという行為から、一転して、永続的な肉体の棺おけにマギーは押し込まれていくことになる。
そしてその極度な停滞が行き着いた末の、血液循環悪化による片脚の切断。停滞どころではない、肉体の削減という生々しい事態が待っていたのだ。「プチ・ロッキー的な高揚感」を味わってしまった観客にとっては、同じ肉体が経験するこの過酷な運命の前に誰しもが愕然となる。

さらにこの映画は“肉体”の問題から“存在”という根源的な問題へと突き進んでしまう。自らの存在を自らの意思で消滅させる「尊厳死」という権利。宗教的な教えの前に老トレーナーが逡巡している間に、自分の意思を反映してくれる唯一の器官となってしまった“舌”を噛み切っての自殺未遂。
何という「負」への凄まじいまでの疾走感なんだろうか! この尋常ではない暴力的なまでに強靭なマイナス方向の力によって、
私はこの映画における 自分の立ち位置を完全に見失ってしまった。
自分の気持ちを平穏に保ち、折々の局面に対応する平常心と客観性を保つことなんて、到底できなくなっていたのだ。

はかなくも映画が企てた罠に陥り、無残にも映画の餌食となってしまった身としては........、


もう何も語ることができない。



8月9日(水)  第3回目  最終回の次の回

「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューを完了しましたが、最終回のレビューにおいて、映画レビュー繋がりの バニーマンさんから、

 「監督のクリント・イースト・ウッドが、
      “この映画は 父と娘の恋愛(ラヴストーリー)だ”
                 とインタビューでコメントしたそうです。」

との書き込み情報にインスパイヤーされて、「最終回の次の回」として特別にレビューを続けます。

        なるほど.......。

老トレーナーの命名によるマギーのニックネーム
 “モ・クシュラ” は
 “愛する者よ、お前は私の血” と訳すのですが、
 “私の血” が意味するところは

         “娘”

なのだろうと、このインタビューから強く思いました。

息子や娘のことを表現する時に
“血を受け継ぐ”とか“血を引いた”などと日本では言いますが、
この表現を強引に転用すると、老トレーナーはマギーに対して“自分の娘”
という思いで接していたことがわかります。

「父と娘の恋愛(ラヴストーリー)」 とのことですが、
究極的に相手を“思いやる気持ち”の物語なのでしょう。
あの二人は血は繋がってはいませんでしたが、
親子のように深く思い合う二人による、“魂の触れ合い”をこの映画は語っていたのです。
いや、そんな生ぬるい言い方ではダメだ、二人の

      “魂が強くぶつかり合う”

映画だったのですね。

愛するが故に、その命を苦渋の選択の末、終わらせてあげる映画。
そして、信頼している人に、無限地獄から、死をもって解放してもらう映画。

そんな深く濃密な人間関係の物語だったのです。

悲劇的な語り口に深く動揺して、その中心にある、“魂の物語” に言及できないでいたのでした。
反省.......。
 

『ハッスル&フロウ』

 投稿者:kusukusu  投稿日:2006年 8月14日(月)17時36分17秒
  いかすアメリカ映画を見たかったら『ハッスル&フロウ』を見に行こう。
描かれるのはメンフィスの黒人社会の、ポン引きと売春婦のしがない生活だ。
リアルにアメリカ社会の現実を描写した作品ですか? うーん、たしかにそうなんだけど、リアリズム一辺倒の映画というのともちょっと違うな。これは凄く暖かい映画なんだよ。
なんだ、いつものアメリカ映画のサクセスストーリー、今度はヒップホップのサクセスストーリーですか? うーん、それも間違いではないような気もするんだけど、サクセスストーリーにしてはシビア過ぎるかな?
でも、ニヒルではないよ。シビアな描写で生活を描いたものなんだけど、暖かいんだよ、これは。ちゃんと街が描かれていて人がいるんだよ。
だから、ゴダールを思わせたり、『ハーダー・ゼイ・カム』を思わせたり、アメリカ以外の映画を思わせたりもするんだけれども・・でも、やっぱりこれはアメリカ映画なんだ。王道というか、直球の、いかすアメリカ映画。

(ちょっと乱雑な文章ですが、アメリカ映画好きな人が多そうなここにはぜひ紹介したい映画だったので。テアトルタイムズスクエアでレイトショー公開中です。)
 

考え直しました

 投稿者:つじ  投稿日:2006年 8月14日(月)08時25分39秒
  >個人主義のハードボイルドって少ないです

いや。たくさんありました。ごめんなさい。訂正します。
 

サマリアは?

 投稿者:つじ  投稿日:2006年 8月14日(月)08時24分21秒
  マーク・レスターさん

「狂った果実」では、演歌から一番遠い、個人主義の人が岡田真澄ですね。
日活映画は、青春ものが多くて、個人主義のハードボイルドって少ないです、そういえば。
ぼくは、個人主義って感じの映画も大好きなものが多いですが、演歌になりそうで
見事に個人主義で逃げきった『サマリア』は、マークさんのお好みでは???

物語の内容は、売春をしている女子高生と、その親友の主人公の物語ですが、
売春をしている女の子の方が気弱で、親友の主人公がその行為を叱りながら
支えているという、そこからしてセンスのある設定です。

(そういえば、北野武では、どちらかと言うと評判の悪い「BROTHER」は、マークさんはどう
でしょう? 演歌と個人主義のないまぜと見るか、、、、。)
 

岡田真澄

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2006年 8月12日(土)08時02分18秒
  つじ さん コメントありがとう。
楽しく拝見致しました。

『明日があるさ〜The movie〜』は見る価値あり ですね、メモりました。
『王子とこじき』 あれが最後でしたかね
『HANABI』    残念ながら、良さがみつけられなかったな

そして 岡田真澄!  「狂った果実」で一番かっこよかったな、

なぜ、日本の映画界(日活)は 当時の岡田真澄を 「狂った果実」ばりに
使わなかったのだろう。非常にもったいないと思いました。
 

入れ代わり

 投稿者:つじ  投稿日:2006年 8月 7日(月)19時38分47秒
  久々になってしまいました!

オイカワさんの息子さん、面白いなあああ。
リチャード・フライシャーの「王子と乞食」みたいなマーク・レスターの
入れ代わりプロットは、はてさて、いったい、どんな風に見えるんだろーーー。
と興味がつきないのですが、マッドサイエンティストがでない作品だからなあ。。。(^ ^;

『明日があるさ〜The movie〜』って、大好きな作品なんです(脚本が)。
脚本は、ダウンタウンの構成作家の高須光聖。この人、熱くていいなあ。
でも、この作品に出てくるマッドサイエンティストは、実は、マッドではなく
そして、カッコ良くはないのでした、、、。演出はかなりはっきり見せる
TV的な見せ方ではあるものの、感動して泣いちゃったりします。


いや〜。マークさんは、『狂った果実』なんて、どこも琴線に触れないんだろーなーと
思って来たけれど、果たして、感想、面白いですねー。そんなに深くタイトルの意味
考えたことなかったーーー。(^ ^)/

演歌・浪花節は当たってますよね。
しかし、演歌・浪花節とは違う、すごくきらきらまばゆい恥ずかしさで
作品が覆われていると思います。音楽も、セリフも、カット割りも、カメラアングルすら
恥ずかしい。この恥ずかしさに触れると、ぼくはいつもわくわく、ドキドキしてしまう
んです。

色々なものを持て余している時間・時代。良く映っていると思います。

道行きは、『HANABI』みたいな作品はまさにそうだと思いますけど、
『狂った果実』には感じられなかったなあ。道行きが、「来世」にしか
託せない恋の終点であるとしたら、『狂った果実』の恋は、もっと、
行き当たりばったりだと思います。行き当たりばったりという主題は、
ぼくはすごく惹かれるんですよねー。

そんなわけで、ぼくは、まだ岡田真澄の追悼ができていません。
 

「狂った果実」 DVD車内鑑賞レビュー

 投稿者:マーク・レスター  投稿日:2006年 8月 4日(金)22時44分23秒
  ポータブルDVDプレイヤーによる 車内鑑賞レビュー



              7月21日 vol.1


日本というこの貧しい国から、遠く数万マイルも離れて、
“生活”という無粋な言葉とは無縁の場所に位置する、

    「湘南」という 独立王国。

この映画はそんな別世界に住む、特権階級に属する方々の物語なのです。

鎌倉の大きな家に住み、逗子・葉山をフィールドにモーターボートや水上スキーに興じ、オープンカーで横浜のナイトクラブに乗りつける。
半世紀も前の“太陽族”と呼ばれる先進的な青春像がそこにあった。

“奔放で弟想いの 兄・石原裕次郎” と “真面目でウブな 弟・津川雅彦” の関係に、

      謎の美女

が登場。弟が想いを馳せながらも、裕次郎兄貴も参戦。
女一人をめぐっての男二人の微妙な関係が築き上げられていく。
おっと! 裕次郎兄貴が謎の美女に急接近! しかも、謎の美女にはワケありな様子、これから、これらの天上人にどのような葛藤が降りかかるか楽しみなところです。



              7月25日 vol.2


「狂った果実」とは “謎の美女” のことだったのですかね?

彼女の本性は、外国人の夫を持つ、二十歳の、しかも、男あしらいを十分に心得た人妻だったのです。

“謎の美女”が、“奔放で弟想いの兄・石原裕次郎”に言うことにゃ。
「浮気はいくつかはあったけど、“真面目でウブな弟・津川雅彦”とは真剣なの」
「結婚する前にするべきことを、“真面目でウブな弟・津川”としているだけなのよ」との見解をのたまわります。1956年当時の道徳観念で考えると、彼女の感覚はやっぱり、

       「狂った」

という表現になるのでしょうかね?

あっ、いや、1956年当時、狂っていたのは、実は、“謎の美女” だけではなかったのでした!
“奔放で弟想いの兄・石原裕次郎”。 その人も、期待通り、しっかりと狂っていてくれたのです。

この “謎の美女” の本性を “真面目でウブな弟”に黙っておく代わりに、俺と浮気をしろ と迫ってきたのです。
何という “弟想いな兄”なのでしょうか......。

結局、“謎の美女”と“兄・裕次郎”は 深みにはまっていくのですが、そこに、彼女の夫や“ウブな弟・津川”の存在がからんでいくのです。


    あれ....ちょっと待てよ.....。


いきなりこの映画の雰囲気が湿っぽくなってきやしないか?

「湘南」という カラッとした租界にいる気がしないのです。ヤバイぞ、ありきたりな悶々とした 国産映画に成り下がってしまう。と危惧したのも束の間、
“真面目でウブな弟”と“謎の美女”が日常的な買い物途中で、出くわしてしまうのです。

     ダメじゃん!

弟と彼女が出会う場面がこんなありきたりなテンションではダメですよ。弟にとって彼女は1ランク上の 憧れの存在 であるはずなのに、非常に気楽に、ありがたみもなく出会わせてしまったところに、この映画の「変節」を見たような気がしてなりませんでした。

この瞬間から北原三枝は“謎の美女”の高みから、恵梨 という そこいらにいる女 へと価値を下げてしまったと感じました。他の国産映画と一線を画してきた、ドライでクールなセンスが揺るぎ、“謎の美女”のこの庶民化とともに、急落してしまったのではと、非常に残念な気持ちで一杯です。

このまま雑多な国産映画の、「うらみ、つらみ、」という湿気の多い映画にならなければ良いな と願ってやみません。


              7月30日 vol.3


“衝撃的” と評されたこの映画のラストシーンの行動起因は、「東海道四谷怪談」の古典作品にも見られる、「迫害」に対する「うらみ・つらみ」という非常に日本的な感情によってもたされていたのでした。

「湘南」という別天地の住人を登場人物に起用しても、1956年当時、新進気鋭の作家を抜擢してさえも、容易に「日本」という呪縛から解放されることは無かったわけです。そうです。この映画は確かに、日本国・神奈川県という非常にドメスティックな環境で、しょぼしょぼと終わろうとしているのです。
“真面目でウブな弟”は「迫害」なんて受けておらず、もっと軽い「疎外」程度ではありますが、“ダメージを受けた側が執拗に、そして寡黙に加害者を追い詰め、死をもって復讐を果たす”というお話の骨子を考えると、

    これってもしかして

「四谷怪談」!? っと思ってしまった、勿論、彼は“幽霊”であるわけもないのですが.....(しかし、ラストの表現を考えると、生死の順番が逆になっただけなのかもしれない...死して復讐をするか、復讐してから死すか....その違いだけだったのかも.....。)


    湘南! 太陽族!

という言葉が飛び交う、華々しさから、
中盤以降、“奔放で弟想いの兄”が“謎の美女”に心底惚れる役であったことを唐突に思い出すあたりから、映画は「道行き」的な前近代的悲劇傾向を帯び、捉え方によっては、演歌的・浪花節的な様相を呈してしまうのです。 くー 残念!


狂ってしまったのは、彼女や彼、そして暴走をする弟ばかりではなかったのです。最も狂っていったのは、不格好きわまりないこの“アンバランス”を生み出してしまった、この映画のプロット自身だったのです!!
 

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