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清陵同窓会

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 6月24日(土)01時39分15秒
返信・引用
  いよいよ、今日清陵同窓会、そして篝火の会懇親会です。

総会後の紅やでの懇親会では誰に会えるか楽しみです。
チケットは当日受付で手に入りますよ。私もそうですが懇親会になるといきなり人が増えます。
そのままの流れで伊呂波、若干増えても何とかなると思います。

楽しみましょう。
 
 

伊呂波

 投稿者:小口和文  投稿日:2017年 6月22日(木)21時49分49秒
返信・引用
  24日、昼間は東御市まで出張です。
夕方には戻れると思います。伊呂波には参加します。
 

イロハ

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 6月20日(火)06時57分53秒
返信・引用
  色は匂へど常ならむ 有為の奥山けふ越へて・・・・
行くかはの流れは絶へずしてしかももとの水にあらず。・・・

いずれも仏教の無常観を言ったものだと思う。だがそも「常なる」ものを想定せずに「常ならぬ」と言えるのか。イロハ歌では、常なるものは時間の流れではないかと思う。時間は「常に」流れているのだけれども、その中での現象のあり方は同じことは一つとしてない、と。

一方で鴨長明は、時間そのものを問題視している。かはの流れは絶へずしてしかももとの水にあらずから分かるように、流れに対して岸辺を対置している。彼もまた、「無常」と言えるためには「常」がなければ言えないところまでは前提しているようだ。だが普通は、出来事は定まらない、しょうがないという仏教的・文学的文脈で読まれている。そして鴨長明もそれ以上のことは言えていない。でも仕方ない。

確かに流れるという概念は、何かに対してという思いを誘発する。でも時間が(何に対してでもなく)流れている感じ方も捨てきれない。だから鴨長明の言葉が古典として生き残っている由縁でもあるだろう。時間は流れている、流れているからには何に対して? でも何に対してとは言えない。その不動の何かも時間の中にいざるを得ないからだ。
 

伊呂波

 投稿者:ぎいっつぁ  投稿日:2017年 6月20日(火)00時38分50秒
返信・引用
  総会は無理ですが 伊呂波 出席します。  

同窓会、伊呂波

 投稿者:新井滋平  投稿日:2017年 6月19日(月)20時39分7秒
返信・引用
   「お庭」ご無沙汰いたしております。今年は、「同窓会総会」「伊呂波」ともに「欠席」させて
戴きます。誠に申し訳ございません。おかげさまで元気に日々を過ごしております……。新井拝  
 

伊呂波

 投稿者:藤森 潔  投稿日:2017年 6月19日(月)10時26分46秒
返信・引用
  行きます。  

6月24日「伊呂波」の件

 投稿者:こじま  投稿日:2017年 6月19日(月)08時46分46秒
返信・引用
  現在、出席予定者4名です。

1年に1回の顔合わせですので、会いましょう!
 

もうちょっとだけお邪魔しておこう

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 6月17日(土)07時01分37秒
返信・引用
  「疑う」は他動詞である。目的語が必要である。
以前恐る恐るデカルトの独我論について喋ったことがあった。
デカルトは他人なんか存在しない」かもしれない、と疑う。しかしこの問いが成立するためには、或る意味デカルトは他人は存在することを知っている。知っていなければ「他人は存在する」どころか「他人」という言葉さえ発することができないはずである。これこれはないかもしれないという疑いが成立するためには、これこれはあることを知っていなければ、そも疑えない。「かもしれない」という表現に現れている。「~かもしれない」と表現する人は「かもしれなくない」を知っていない限り問えないのだ。情報が行き渡った現代では、幼稚園児でも地球は丸いことを知っているだろう。でも彼らは、余りにも早く情報が与えられるため、だって地球は平らじゃんという経験的感じ方をすら奪われているのだ。平らだという経験があるからこそ、実は平らではないと知ったとき驚きが生まれるのだ。情報化社会は経験を奪う。教育も情報を押し付けることで、型に填めることである。

以前「他人なんかいないかもしれない」と口走ったとき「まさを君、他人ているんだよ」と応答してくれた方がおられた。その方の余りにも平板な世界理解に心底驚いた。他人などいないかもしれないと疑えるためには、或る意味において(日常的意識・言葉の使い方)「他人はいないかもしれなくない」ことを知っていなくては問えない。他動詞は目的語を必要とするからだ。従って、デカルトの「他人なんかいないかも知れない」という問いは、日常・常識的感じ方(だって他人ているじゃん。他人の一人である妻とセックスして現に子供がいるじゃん)で答えてはいけない問いなのだ。
 

ごめんね、受けない話ばかりして

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 6月16日(金)07時30分1秒
返信・引用
  幸一郎君が70と75について語ったので、間をとって73について語ろう。
これは4K+1型の素数なので2個の平方数の和になる。同じ理由によって2個の平方数の差で表される。 73=3^2+8^2=37^2-36^2.

73はまた、8K+1型の素数なので「平方数+2倍平方」として表される。1^2+2・6^2=9^2-2・2^2.

73はまた3で割ったら1余る素数なので、「平方数+3倍平方」ろ表される。5^2+3・4^2=10^2-3・3^2.

理由は述べないが、6^2+37・1^2. 73=X^2-37Y^2 という形式というか表現があるはずなのだが見つけられない。73には更なる特質があるのだが、以前触れたことがあるので繰り返さない。

数というのも不思議で、人間が勝手に作った人工物である。(俺は自然物の中に2などいうものを見たことがない。しかし君は豚が2匹いる情景を見たことがあるだろう。でも既に2という概念が成立しているからそう見えるだけだ。)なのに数たちは何故か生きていて(もちろん妄想であるが)、漱石描くところのこちらに誘いをかける謎めいた女性のように思えて仕方がない。謎めいた女性というより漱石にとっては、女性=謎という図式が成り立つのかな。

73とは何かと問われて(そんなことを問う人はいないだろうが)素数であると答えたとしても無駄である。素数なんてありふれてどこにでもいる(ある、と言うべきか)4K+1型だと規定しよう。それもありふれている。5,13,17等隣人(同類)がいくらでもいる(ある) つまり僕は73の個別性・唯一性をいいたいのに(だって73は73でしかないという意味で、この世でたった一つしかない)それを描写しようとすれば、素数だの4K+1型だの一般性を持った表現しか可能ではない。

哲学(これは何たらの真理を述べた言葉の集合ではない。言語を持った人間のあがきの1形式である。文学も数学もそうだ。彼らが戦っているのは、言語という形式に対してなのだ。(科学者は知らない))でいえば、個物を表現しようとすれば無限に多くの述語を必要とする、ということだ。でも数学も言語と戦っているのか、難しい問題だ。
 

清陵同窓会

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 6月 7日(水)17時17分46秒
返信・引用
  6月24日の清陵同窓会・伊呂波での懇親会、参加します。

中村博くんが清陵同窓会長に、名取重治くんが富士見町町長選に!
皆さん、頑張っている。

やはり。高齢者は70歳から・・そのうち75歳からになるのかな・・。
 

時間とは何か

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 5月30日(火)07時50分32秒
返信・引用
  を問うても絶対に分からない。「○○とは何か」と問うことに既に時間が前提されていると言うか、そも時間なしに問えないからだ。だって問うためには(言語表現されるためには)幾許かの時間が必要であろう。

体を手で持ち上げることによって空中浮遊できるか。手もまた体の一部であることによってそんなことはできまい。

日常意識の中では、「時間がある(ない)」という表現には何の不思議もない。だが「ある」という意味を問うたならば、それは時空間の中にとしか言えない。物体ばかりでなく観念についても同じである。プラトンの言うイデアに関しても同様であろう。正義なら正義のイデアがどこかにある、と彼は言う(プラトンの言うイデアは「善きもの」である。彼は、全き悪を全く想定していない。)ソクラテスに影響されたのであろうか。ともかく、イデアという観念はプラトンという空間という位置を占め、時間的に持続を含まなければ言えない。

でもまあ話を戻そう。時間とは何かを誰か説明して頂けないだろうか。説明するには幾許かの時間が掛かる。説明されるべき当のものが、説明されるべきものを前提されざるを得ないのだ。

またぞろky的なことを語ってしまった。でもkyとは何か?
 

お知らせ

 投稿者:こじま  投稿日:2017年 5月28日(日)09時43分27秒
返信・引用
  清陵同窓会定期総会 と 篝火の会の総会(懇親会中心)について
清陵同窓会
 期日 6月24日(土)
 会場 ホテル 紅や
 総会 13:30~
  パネルディスカッション:「清陵に女子が」と言われた時代から 15:00~
 懇親会 17:00~
 会費 5000円

72回生 篝火の会 懇親会 18:00~
    居酒屋「伊呂波」  会費 3000円前後

上海虎 さんからの投稿にあるように 矢崎同窓会長が健康上の理由で辞められて

72回生の 中村 博 君が  清陵同窓会の 会長に なりました

副会長の 小口 啓子 さんともども みんなでサポートしてあげましょう!
 
 

恋と愛

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 5月28日(日)07時27分38秒
返信・引用
  恋は「下心」愛は「真心」

なるほど確かに恋という漢字は「心」が下にある。なるほど確かに愛という漢字には「心」が真ん中にある。

恋と愛はどう違うのか、そんな馬鹿げた(何の役にも立たない)疑問に取り憑かれている。

俺はあのとき恋したのか愛したのか。60代も半ばを過ぎ、既に死に近いのに、そんな暇人しか考えないことを考えている。皆様はお忙しいでしょうから考えないことを。まあ暇人の寝言である。
 

中村君、同窓会長に

 投稿者:上海虎  投稿日:2017年 5月27日(土)20時55分21秒
返信・引用
  同窓会の役員会で、中村副会長(前82銀行副頭取)の昇格が内定しました。  

名取君、町長選出馬へ

 投稿者:上海虎  投稿日:2017年 5月25日(木)09時31分55秒
返信・引用
  皆さん、こんにちは。上海虎こと平出重昭です。

名取前副町長が、8月の富士見町町長選に出馬します。
先日、信濃境駅前の食堂しなので会合があり、本人から町政にかける熱い想い、
参加者から一致協力して必勝祈願がありました。

富士見高陵会ーーー名取、小林(茂)、雨宮、清水
富士見南嶺会ーーー平出(高)、平出(善)、小林(幸)、今井、小島、小林医院、平出
原村ーーー荒木
 

今日も数について考えている

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 5月23日(火)03時01分31秒
返信・引用
  数とは何かなんて全く分からない。数とは何かを分かっていなければ殆ど全ての科学的概念は理解できないにも関わらず。それは「言語とは何か」という問いを発すればよりはっきりするだろう。言語とは何かが分かっていないが故に発せられるその問いは、しかしその言語を使ってなされているではないか。

それは生きるということにも通じる。何故生きているのかなんて訊かれても答はない(応えはいくらでもあり得る)父ちゃんと母ちゃんがマ○コしたからだという「科学的」答は参考にならない。それは俺の身体存在を説明するだろうが、「俺」の存在理由を説明しない。

ときどき変な観点を差し挟ませて頂く。kyになることもあるかもしれない。でもときにはkyにならなければ面白くないんじゃないかとも思う。
 

RE:小野御柱

 投稿者:ぎいっつぁ  投稿日:2017年 5月15日(月)16時05分36秒
返信・引用
  孝一郎君 さすがによく気が付きますね、境内曳きつけ直前に皮が付いたままなので『いつ剥くのかな』と思ってたらそのまま動き出すからそのままだと理解しました。冠も落とした状態で曳かれてるから(??!)。トコロ変われば何とやらですね。直前にローカルテレビで神社の案内があったので予備知識になりましたが、あまり大社と比べても仕方ないですね。
繁子ちゃんの元気さに こっちも元気になりました、ありがとう!
 

ありがとう!!

 投稿者:宮澤繁子  投稿日:2017年 5月15日(月)15時41分41秒
返信・引用
  写真+ありがとう!御柱に集まるおじさん、おばさん元気ですね。みんな良い顔しています。
新井さん、和太鼓の指導で地域をまわっていて、この日も付き添っていました。追加して・・・・

神太鼓、社の緑、揺らしつつ

また、みなさんとお逢いできる日をたのしみに!!
 

小野の御柱

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 5月14日(日)11時34分21秒
返信・引用 編集済
  syomoくん・ぎいっつぁ、御柱写真の投稿、ありがとう!
楽しく和気あいあいとした様子がよくわかり、うらやましい限りです。

小野一之柱の男綱、女綱の付け方は諏訪の御柱とかなり違うようですね。
また、木の皮付きで建御柱をするのですか?ん、冠の形状も・・・。
場所が違うとかなり違うようですね。

次回は絶対行くぞ!!
 

同4

 投稿者:ぎいっつぁ  投稿日:2017年 5月13日(土)06時27分14秒
返信・引用
   

同3

 投稿者:ぎいっつぁ  投稿日:2017年 5月13日(土)06時24分19秒
返信・引用
   

同2

 投稿者:ぎいっつぁ  投稿日:2017年 5月13日(土)06時19分49秒
返信・引用
   

小野御柱と赤羽宅にて

 投稿者:ぎいっつぁ  投稿日:2017年 5月13日(土)06時16分42秒
返信・引用
  赤羽ご夫妻には大変お世話になりました。ありがとうございました。
写真掲載の許されている範囲で当日のスナップを添付します。数回に分けての添付になります。
 

集合写真

 投稿者:syomo  投稿日:2017年 5月11日(木)22時21分27秒
返信・引用
  御柱集合写真です  

73かあ

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 5月10日(水)06時02分20秒
返信・引用
  73にはおもしろい性質がある。73=37+36.従って(この「従って」は論理を端折り過ぎではあるが。

37×37=37^2+73・0^2=36^2+73・1^2.
37×41=38^2+73・1^2=35^2+73・2^2.
37×49=39^2+73・2^2=34^2+73・3^2.
37×61=40^2+73・3^2=33^2+73・4^2.
37×77=41^2+73・4^2=32^2+73・5^2.
以下同様に続く。

猫がじゃれる。人間の目には彼らが楽しんでいるとしか見えない。でも多分彼らには自分が今楽しんでいるというメタ認識はないであろう。数に至っては生物ですらない。でも俺には数たちが楽しんでいるとしか見えない。

何故? 「楽しむ」という人間の概念を持ち込むからだ。 逆に人間は自己の理解するという概念を以ってしか、そも理解するという行為をすることができない。比喩とはそういうことではないか。

という訳で僕は、数たちが(非生物であるにも関わらず)何かを待っているような気がして仕方ないのである。
 

う~、楽しそう・・

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 5月 8日(月)01時04分18秒
返信・引用
  赤羽氏宅でのおかまい、小野の御柱、皆さまお楽しみの様子が目に浮かびます。
次回は絶対に参加するぞ!!
次回は・・?
まだ72、ん73か?、まだまだ若い!

誰か写真を投稿してくれないかな。期待しています。
 

大勢にもかかわらず 大変なおかまい ありがとうございました

 投稿者:こじま  投稿日:2017年 5月 7日(日)17時34分51秒
返信・引用
  総勢17名でした。 赤羽宅では 奥様をはじめ、二男の方 そしてそのお嫁さんなど
これ以上にない ご歓待をいただきました。この場を借りまして 深く御礼申し上げます。

お吸い物から寿司類、刺身、オードブルなど食べきれないほど
またお酒類もビール、日本酒、ワインと 飲み切れないほどご用意いただきました。
ことに奥様手造りの 伽羅蕗、独活のきんぴら、こしあぶらの天ぷらは
名残惜しい春の逸品で 「大変 おいしゅうございました」

おっと本番を忘れてしまうところでした。
小野神社の一之柱は 赤羽宅の集落上田地区の担当で 赤松目通り2.5mという
立派な柱で 赤羽宅前の道路を曳行して 午後3時前 めでたく建立されました
忍君も 終始柱の傍で 関わっておられました

syomoさんのおっしゃる通り あれほどの大人数の 宴会に等しい楽しい場を
ご提供いただき 本当に ありがとうございました

いつもながら 篝火の会の 集いは この上なく 楽しい! 
 

終わりました

 投稿者:syomo  投稿日:2017年 5月 6日(土)18時59分7秒
返信・引用
  今日の片付けと、慰労会でやっと終わりました。好天に恵まれ、顔のシワがハッキリわかるるように真っ黒に日焼けしました。三日には遠路、小野の僻地(牛正曰く)までご足労をいただきありがとうございました。ろくなおかまいもできませんでしたが、語らいの場の提供ができたことで自己満足をしております。元気でいられれば、次回もお誘いをさせていただきます。みんな!元気でいて!小野の前に諏訪があるか。  

ありがとう!!

 投稿者:宮澤繁子  投稿日:2017年 5月 4日(木)09時37分21秒
返信・引用
  昨日の小野神社の御柱祭、楽しく参加できました。赤羽忍さんお疲れ様!ご家族の皆様、奥さんご接待ほんとうにありがとう!篝火の会の場があり、懐かしいみなさんにお会いでき、感謝です。昨年の諏訪の上社でくるみの義一さん、下社の小松歯科医院さん、みんな多大なお世話になり、ありがたいと思っています。いつが最後の機会になるかもしれない年齢ですから、できるだけ逢える機会は大切にしたいと思いました。

五月晴れ、小野の御柱、天を突き

藤森ご夫婦の車で小野に初めて降りた時、村の隅から隅まで見渡せました。ここに千数年の伝統のある小野神社と、弥彦神社があり、参拝すると、とても大きく立派です。様々な由緒もありますが、村の古老、長老たちの文化伝統を伝える矜持を感じました。
「つべこべ、言うな」みたいな、頑固者のみなさんたちががんばってきたんだな、と。
辰野から清陵へ通学していたみんな、ご苦労さま!すごい山の中からだもの・・・・・・
 

(無題)

 投稿者:ムー  投稿日:2017年 5月 4日(木)08時47分10秒
返信・引用
  syomoさん、ご家族様昨日は大変ありがとうございました。
皆さんともお会いできて、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
また、夜明け前の大吟醸と学友会長の木遣りで、更に元気になりました。
また来るからよろしく。

 

小野の御柱

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 5月 2日(火)08時45分35秒
返信・引用
  小野の御柱がいよいよ明日になりました。
天気もよさそうだし、syomoくんのお宿もあるし、皆さん、存分に楽しんでください。
きっと盛大でしょうね!

私は家事都合でいけませんので、楽しんでいる様子をお庭に投稿してください。
楽しみにしています。
 

車で行くよ。

 投稿者:藤森 潔  投稿日:2017年 4月29日(土)19時34分34秒
返信・引用
  小野の御柱が近づいてきた。
僕は、奥方と、村木(機関長)と、ぎいっつぁと、繁子ちゃんを乗せて車で行きます。
知ってる限りでは、学友会長は、9時の電車でと言ってました。
 

うんちくではないが

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月29日(土)09時19分31秒
返信・引用
  皮被りと皮剥きは、真性包茎と仮性包茎を思わせる。もちろん言葉の類似性からのふざけた類推に過ぎないが。それがそうだとしてだから何がどうなんだとは言えない。

ただ日本の神事や神話が性を巡っていることを漠然と思う。イザナギさんとイザナミさんは「ありて足りないところとありてあり余るところを「補い合った」ではないか。

僕はそのような文学的読解(象徴的読み方)は好きではないが、何かを読む以上何らかの立場に立たなければならない。そうでなければそも言語が発動しない。

つまり我々は何で獣染みた「まんこ」なる行為をするのだろうか? 本能? 本能なる概念が人間にとって自然であったならば、そもその概念が析出されることはなかったであろう。祭りという行為はだから、人間にとって人間とは何かという哲学的呼びかけに対する応答なのだ。理由もなく祭る。

神話の論理で言えば、出雲世界の何たらの争いに敗れここ諏訪の地に敗走した、その前に小野の地に立ち寄った、そのときオオクニヌシの命とタケミナカタの命は一緒だった。一緒だったけれども別の人格(神格?)だった。故に小野神社と矢彦神社が発生した。

小野はあんな狭い地域にも関わらず、幸一郎君の仰る通り塩尻市と辰野町に行政区域が分かれている。姉は「組合立両小野小学校」というまか不思議な学校に入学した。病院の名も「両小野病院」だった。子どもごころにその名前が不思議だった。

こじま君の仰る「たのめの里」 近代に至って分裂したのではない。何と歴史どころか神話が関与している地域だ。小野は何かしら哲学やら神話的思考を誘発する地域なのだ。
 

小野の御柱

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 4月27日(木)23時34分9秒
返信・引用
  小野神社と矢彦神社は並んでいるが、小野神社は塩尻市北小野、矢彦神社は辰野町小野にあるんだよね。

山出しの写真を見ると、小野の御柱は木の皮付き、弥彦の御柱は皮をむいてある。
諏訪の御柱との共通点とか違う点とか気になる・・。
今回、行けないので余計気になる・・。

誰かうんちくを語ってくれ!!
 

小野御柱

 投稿者:syomo  投稿日:2017年 4月26日(水)17時12分16秒
返信・引用
  先日、和文君が電車の時刻案内をしてくれましたが、時間に余裕のある方は高尾発6:14松本行きの電車でおいで下さい。茅野8:50、上諏訪8:56、下諏訪9:01、岡谷9:07発で塩尻9:18着、辰野行きに乗り換え、9:36発小野着9:46です。ムー夫妻?と一緒になるはず!待ってます?  

ムーの話

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月23日(日)04時41分26秒
返信・引用
  といっても近藤君の話ではない。「ムーたち」という漫画がある。榎本何とかいう(あまり有名ではないし、絵の巧さを押し出した(「アキラ」とか)作品ではない。)人だ。

彼の描くムーは言う。
ムー「お母さん、何で誕生日ってめでたいの?」
母「目出度いからめでたいのよ」
ムー「だとしたら、僕の生まれた時間だってめでたくはない? 誕生日があるならば、誕生時だって目出度いでしょ」
母「そんな馬鹿なこと言ってないでお勉強しなさい」
ムー「でも僕、それがそうならば(=誕生日がめでたいのならば)どうしてみんなは「誕生時、誕生分、誕生秒を祝わないのか不思議なんだよ」

ムーの言い分が世の言説に現れることはない。誕生日(何故「日」なんだろうか?)が目出度いことを前提として組み立てられているからだ。

「御柱って何が目出度いの?」 「馬鹿野郎、目出度いからめでたいんじゃ」
 

小野御柱

 投稿者:ムー  投稿日:2017年 4月22日(土)08時12分27秒
返信・引用
  5月3日は伺います。
計画して戴いた和文さんには悪いけど、昨年行けなかったので9時46分小野 着で計画中。
一日中楽しみ度、よろしいかな?


 

そんなこんなで「憑(たのめ)の里」へ

 投稿者:こじま  投稿日:2017年 4月22日(土)00時03分3秒
返信・引用
  「篝火の会」で 品よく 楽しく 雄渾に 伺いましょう!

赤羽君、奥様 よろしくお願いいたします。
 

そういえば・・・

 投稿者:藤森 潔  投稿日:2017年 4月21日(金)13時48分3秒
返信・引用
  6年前の、小野神社の「御柱」で、syomo宅に伺ったのは、10時頃だったかな。
車を、田圃の脇に不法駐車をして、syomo宅に歩いて(200m位だったけど)行った。

新井くんの率いる太鼓を見たり、柱を曳いたり、最後は小野神社境内までよそ者のくせに侵入して。
「小野の神童」は健在でしたね。「赤羽忍さん」のご招待ってことを、曳き子の中年女性に語ると・・・『あっ、syomoね。』って、、、?

と言うわけで、皆さんせっかくのご招待ですので、遠慮なく押しかけちゃいましょ。
飲み物飲みきれないほど、(この日のために、マルヤス電気で450Lの冷蔵庫を新調したそうです。)あるという事ですし。。。
前回訪ねて思ったけど、、、小野の御柱はのどかでいいよ。

まさをくんの言う、>まるで俺の方が本家といわんばかりに。 あるある。syomoも時折言ってる。
まさをくんも、例の宿泊施設にでも予約をして(駄目ならsyomo宅に泊まればよい。五月さんは慈悲深い人だから)来たら?
命短し恋せよ乙女。。。っでせ。
 

小野って変なところだよね

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月21日(金)07時48分30秒
返信・引用
  高島藩でも高遠藩でも小笠原藩(松本)でもなく天領だった(F君から仕入れた知識)。あんな狭い地域なのに、諏訪の御柱に対抗して(?)御柱祭を実行する。まるで俺の方が本家と言わんばかりに。あの人たち(俺もその末裔だが)は何をやっているんでしょうか?

由緒という概念が時間の古さに依存するならば、彼らタケミナカタの命オオクニヌシの命たちは諏訪に行く前に小野に立ち寄っているんだから、由緒的には小野の方が由緒正しいわけである。

でもだからと言って何が何なんだろう。

そうは言っても俺は小野の御柱を見たい、経験したい。

出来事というのは、ただ1回そのそこでのみ起きていることなのだ(奇蹟である。俺はこの奇蹟概念を或る数学者から教わった) 単なる(と通常思われている、しかし「単なる」としなければ、日常が送れないのだ。その度に奇蹟が起こってはいるのだが、そんなことに付き合ってはいられない。何しろ人生は忙しさに満ちているが時間的に限られているため余裕がない。

以上のような訳で(?)小野の御柱には参加すべきであるし、お酒等を心配せずに心行くまでsyomo君の家で馬鹿騒ぎすればいいのだ。
 

RE:小野の御柱祭参加

 投稿者:syomo  投稿日:2017年 4月20日(木)19時01分6秒
返信・引用
  五月三日は神社に入る柱は小野神社1の柱だけ(矢彦神社も無し)。予定電車だと神社に入る時間で柱にも近づけない状態だと思います。この電車の通過を待って線路を渡る予定です。
どうせ一日、小野の御柱に来るなら、もっと早く来て(十時頃)、御柱を楽しんで下さい。我が家にきてお茶の変わりに一杯飲んで、ちょこっと柱をひいて、お昼に宴会をして、建御柱を楽しんで下さい。お酒の心配はいりません!小野酒造の夜明け前、頼母鶴、好々爺(米焼酎)塩尻産ワイン、ビール諸々、コーラ、お茶等飲みきれない程用意してしまいました。飲み切って下さい。女房曰く:三十人も四十人もあんまり変わらないと言ってます。家には入れると思います。接待はそれなりですので気軽にお出かけ下さい。
 

小野の御柱祭参加

 投稿者:小口和文  投稿日:2017年 4月20日(木)17時07分17秒
返信・引用
  16日赤羽邸に所用で伺いました。
途中で、ほどよく反った根回り2メートルもあろうかと思われる赤松の巨木が横たわっていました。
小野は盛り上がっているなと思ていたところ、昨夜我が家に小野の御柱祭への観覧呼びかけの回覧板が廻って来ました。       いよいよ僕らも備えなければと、遅れましたが予定お知らせします。

5月3日 ~岡谷駅 10時31分 岡谷駅乗換 10時35分~辰野駅10時53分 辰野駅乗換
      辰野駅 11時00分 ~ 小野駅 11時10分
 この電車の運行スケジュールが最適です。ただし中央線下り利用の場合です。
 塩尻駅より小野へ向かう方は、塩尻駅臨時電車 10時30分~ 10時41分 小野駅でお願いします。( 岡谷駅・辰野駅経由組到着まで申し訳ありませんが待ってて下さい。)

赤羽君の家へは12時頃お邪魔する予定です。
奥様に過度のご負担をおかけしないよう各自?はご用意お願いします。
お酒類は事前に小島会長ほかの志を頂き充分用意しておきます。

車で赤羽邸に行かれる方は、交通規制を調べて、くれぐれも無駄な出費をしないようご注意を!

御柱祭、元気で皆さんとお会いできるのを楽しみにしております。
尚帰りは、建御柱まで見て 小野駅16時28分発~辰野駅37分着 16時47分発~岡谷駅着17時00分  を予定しています。
 

そっか

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月16日(日)03時57分15秒
返信・引用
  我ながら読解力のなさに呆れるが

出てきたついでに読解の話。高1か高2のとき、数学のテスト。どう見ても正しいのに×になっていた。抗議に数学研究室に行った。話をしたら自分が文意を真逆に解釈していたことが分かった。「でも、せんせー、俺のように解釈もできるでしょ」「うん、言われれば確かに君のように解釈もできる。でもそんな風にとった人は君の他にはいないから・・・」と言いながらも少し加点してくれた。(どの先生だったかは記憶の彼方)

ジジイになってからも覚えているのは別に恨みからではない。何となく釈然としなかったからだ。仮にも数学の先生ならば、僕のような読解もできることを認めた以上、それもあり得べき正解と認めるべきではなかったか。そうでなければ、多数決(何と民主主義的!)などを論拠とせずに、君の解釈はこれこれこういう理由で成り立たないという風に論理的に諄々と(懇々とが正しいのかな)説いてくれるべきではなかったか。
 

説明の仕方が悪かったかな?

 投稿者:藤森 潔  投稿日:2017年 4月15日(土)16時00分2秒
返信・引用
  コロを入れて曳くのは矢彦神社の氏子衆の話。
過疎化の影響で、曳き子が不足するための苦肉の策とのこと。
「だったら、細くて短くすりゃ~いいじゃん。」と心の中で呟いた。

諏訪大社のご用材は当分自前では調達できそうもないみたいなので、、、
小野の皆様には足を向けて寝られないってこと・・・デスね。
「運搬」は、それはそれは大変だったとのこと。大型トレ-ラーで数百万だか数千万だか・・・(?)
よくわからないが次回からの戸別の負担金が(ご寄付と言ってるが)今回の二倍になるとか。。。
 

でもまあ

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月15日(土)08時31分1秒
返信・引用
  川島から諏訪に運んだのは「曳行」じゃないんだよね、「運搬」じゃなかろうか。
神事が始まるのは、諏訪の地に定置されてからだよね。だから俺はこじま君のおっしゃる、「御柱とは言えない」に軽い違和感を覚える。

だって川島から諏訪へ運んだ連中は、クロネコヤマト宜しく与えられた業務を忠実に遂行したに過ぎない。コロが最良の選択だったのだ。つまり、川島から諏訪・茅野に運ぶ行程は神事の内部ではないのではないでしょうか。
 

なぬ??!!コロだって!

 投稿者:こじま  投稿日:2017年 4月13日(木)22時21分56秒
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  それは 御柱 とは云わない。
何を 考えているんだ!
 

矢彦神社

 投稿者:藤森 潔  投稿日:2017年 4月13日(木)19時02分12秒
返信・引用
  小野神社は、syomoくんに任せた。5月3日はよろしくお願いします。

先日、矢彦神社の氏子のところに仕事で行ったら
「ここから、200mくらい行ったところに、矢彦の1の柱があるから見ていけや」と。
ほんなもん・・・と多少馬鹿にしながら神様であるお客様に従ったら。。。
すげ~じゃん、今回の「本1」が見劣りするほどの美木。目通りもさることながら、とにかくまっすぐで長い! 馬鹿にしてごめんなさいデス。
そー言えば、今回の諏訪大社の柱は、あっちから(川島の奥)から譲ってもらったんだよね。
んで、トレーラーで大騒ぎして搬送してきたんだよね。やっ、悪かった。。。
と思いきや、、、曳き子がいないので、柱の下に「コロ」を入れて、、、だって。(笑)
 

小野神社と矢彦神社

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月11日(火)06時14分30秒
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  小野駅で降りて駅前の道を塩尻方面に向かうと立派な鳥居が見えてくる。そこに何と神社が2つある(端的に無駄だと思うが、とにかくある) その一つがタケミナカタの親父の(神様もセッ○スをするのか?)大国主の命を祀っているとのこと。

小2のとき学芸会で大国主の命役を演らされた。先生の姓は小泉といい、我らが会の前々回会長小泉悦夫君のご近所出身らしい。定かではないがキリスト教徒だったとも。(先生の言動に微かにその感触はあった)そのお方が何故日本神話を?

今思えば(詰まらん纏め方で気が引けるが)、戦後の(価値観)混乱期に小泉先生も悩んでおられたのだと思う。

現実というのは連続的で切ることはできないが、言語は切る。そこでどんなに精緻に言語表現しようとも、言っても言っても言語表現できない余剰が残る。

出雲に追われたタケミナカタ一行は諏訪に入る前に小野の地で一休みした。

syomo君の御柱には行くべし行くべし。だってそういう意味では諏訪大社よりも小野神社の方が古いんでっせ(真相は知らないし興味もないが)
 

トレミーの定理

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月 6日(木)03時43分6秒
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  難しい定理ではなく中学生にも理解できる。更にそれを使って加法定理が簡単に作図できる(当然で、トレミー自身が加法定理を発見したのだから)が、何故か高校でも教えられることはない。円に内接する四角形の2組の対辺の(長さの)積の和は、対角線の積に等しい、というものだ。ここで、恐ろしく半径の大きい円を考える。我々はその下方にいて、そこで内接する四角形を考える。角度が0,00000000000・・・1とか179,9999999・・・・ だから人間の目には殆ど直線にしか見えないが、それでもトレミーの定理は成り立つ。そして驚くべき(ぼくはべきだと思うが)ことに直線上でも成り立つ。つまりここで発想を逆転させれば、直線とは半径無限大の円なのである。(射影幾何学では無限遠点を導入するが、右方向の無限遠点と左方向の無限遠点は一致するとするが、直線が半径無限大の円だと考えれば納得できるだろう)

そこまでくると、日常(或いは中高数学)用語で使われる使い方とは異なっていると理解して頂けるだろう。(中学生に数学を教えることもある僕も、円を描けと言って直線を描く中学生がいたら怒る・・・ が、彼が「馬鹿センコー、俺は半径無限大の円を描いたんだ」と言えば、にやっと笑って頭を撫でてやる)

そして僕は、他者の比喩として無限遠点を語ったが、また逆に他者こそ無限遠点の比喩でもある。wの比喩を借りれば、俺の首を相手の脳髄に突き刺して、相手が足を蹴られて俺(の脳髄)が痛みを感じたとしてもそれは俺の痛みである。彼の痛みはついに感じることはできない(無論、僕は痛がっている人間に同情することはできる)それをあたかもそうでないようにさせるのが言語である。平行線が無限遠点で交わっているようなことを、日常の言語がやっているのである。赤と言い合って、そのクオリア(質感)を交換する場がないにも関わらず、言葉として通じ合っているのだ。

ユークリッド幾何(我々が中高で習ったやつ)に慣れ過ぎた目から見れば、平行線が無限遠点で交わるなどという考えは奇異に写る(特にお勉強がよくできた人ほど)かもしれないが、なーに微積分だって同じことをしている。その点(例えば2次関数のグラフの接線との接点)にいくらでも近づけることをもってして「ある」としているではないか。
 

小野の御柱

 投稿者:孝一郎  投稿日:2017年 4月 5日(水)16時55分0秒
返信・引用
  小野神社の祭神は諏訪大社と同じ建御名方命、
隣接する矢彦神社の祭神は建御名方命の父である大己貴命(おおなむちのみこと(大国主命の別名))とのこと。
建御名方命が諏訪に行く途中、小野の地にしばらく留まったことが由来と聞く。

小野の御柱は、当然行ってみたい。
でも、5月3日は息子の結婚式、残念ながら欠席です。
皆さん、楽しんでください。
 

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