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うんちくではないが

 投稿者:まさを  投稿日:2017年 4月29日(土)09時19分31秒
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  皮被りと皮剥きは、真性包茎と仮性包茎を思わせる。もちろん言葉の類似性からのふざけた類推に過ぎないが。それがそうだとしてだから何がどうなんだとは言えない。

ただ日本の神事や神話が性を巡っていることを漠然と思う。イザナギさんとイザナミさんは「ありて足りないところとありてあり余るところを「補い合った」ではないか。

僕はそのような文学的読解(象徴的読み方)は好きではないが、何かを読む以上何らかの立場に立たなければならない。そうでなければそも言語が発動しない。

つまり我々は何で獣染みた「まんこ」なる行為をするのだろうか? 本能? 本能なる概念が人間にとって自然であったならば、そもその概念が析出されることはなかったであろう。祭りという行為はだから、人間にとって人間とは何かという哲学的呼びかけに対する応答なのだ。理由もなく祭る。

神話の論理で言えば、出雲世界の何たらの争いに敗れここ諏訪の地に敗走した、その前に小野の地に立ち寄った、そのときオオクニヌシの命とタケミナカタの命は一緒だった。一緒だったけれども別の人格(神格?)だった。故に小野神社と矢彦神社が発生した。

小野はあんな狭い地域にも関わらず、幸一郎君の仰る通り塩尻市と辰野町に行政区域が分かれている。姉は「組合立両小野小学校」というまか不思議な学校に入学した。病院の名も「両小野病院」だった。子どもごころにその名前が不思議だった。

こじま君の仰る「たのめの里」 近代に至って分裂したのではない。何と歴史どころか神話が関与している地域だ。小野は何かしら哲学やら神話的思考を誘発する地域なのだ。
 
 
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