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「疑う」は他動詞である。目的語が必要である。
以前恐る恐るデカルトの独我論について喋ったことがあった。
デカルトは他人なんか存在しない」かもしれない、と疑う。しかしこの問いが成立するためには、或る意味デカルトは他人は存在することを知っている。知っていなければ「他人は存在する」どころか「他人」という言葉さえ発することができないはずである。これこれはないかもしれないという疑いが成立するためには、これこれはあることを知っていなければ、そも疑えない。「かもしれない」という表現に現れている。「~かもしれない」と表現する人は「かもしれなくない」を知っていない限り問えないのだ。情報が行き渡った現代では、幼稚園児でも地球は丸いことを知っているだろう。でも彼らは、余りにも早く情報が与えられるため、だって地球は平らじゃんという経験的感じ方をすら奪われているのだ。平らだという経験があるからこそ、実は平らではないと知ったとき驚きが生まれるのだ。情報化社会は経験を奪う。教育も情報を押し付けることで、型に填めることである。
以前「他人なんかいないかもしれない」と口走ったとき「まさを君、他人ているんだよ」と応答してくれた方がおられた。その方の余りにも平板な世界理解に心底驚いた。他人などいないかもしれないと疑えるためには、或る意味において(日常的意識・言葉の使い方)「他人はいないかもしれなくない」ことを知っていなくては問えない。他動詞は目的語を必要とするからだ。従って、デカルトの「他人なんかいないかも知れない」という問いは、日常・常識的感じ方(だって他人ているじゃん。他人の一人である妻とセックスして現に子供がいるじゃん)で答えてはいけない問いなのだ。
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