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(87)白石の父より  

 投稿者:夕焼け  投稿日:2009年 2月 3日(火)06時33分59秒
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  新井白石は江戸中期の儒者で、実証的な歴史家でもあった。政治家だったこと

は勿論で、幼時窮迫の中で漢籍を学んだ。(中略)

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<新井白石については、申すべきこともないが、第六代将軍徳川家宣の政策ブ

レーンとして、「武家諸法度」を制定した。

その一条に「一文武の道を修め、人倫を明らかにし、風俗を正しくすべき事」

とある。「人倫」とは、父子の親しみ、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友

の信の五つの教えである。

正すべき「風俗」とは、上の教化による「風」が正しければ下の習うところの

「俗」も正しくなると言う。言うまでもなく儒教色が濃い17条からなる条文

である。。綱吉の側近である柳沢吉保・僧隆光・林家を排し、人心を一新させ

た政治家で名高い。>
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白石の父は名を正済(まさずみ)、隠居して心斎と号した。父も長く浪人を

し、31歳の時、土屋利直という小さな譜代大名に召し抱えられた。やがて父

は抜きんでられて、目付の職に就いた。背は低かったが、全体に骨太で顔は四

角で、額は高く出張り、マナコが大きくひげの多かった人だった。家中に酒乱

のある沢某という若侍がいて、主君の怒りにふれ手討ちされる際、目付の父が

呼ばれ異念があるか問われ「絶家になるべきところを殿のお情けによって父の

遺領を賜り、当人はそのことを深く恩として思いそのご恩に報いるため世間の

人並みの心がけでは駄目だと思い定め胆力を練ったしかし、若いころにかの者

のようでなければ年長けて物の用には立ちませぬ」と結んだ。江戸初期の一つ

の武士像である。(司馬遼太郎、この国のかたち・四より引用)
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<この親にこの子ありという典型を見る。人を育てると言うことはこれぐらい

の度量がないと大きくなれない。わが身を振り返り狭量の胆力を如何ともしが

たい>
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